ヨハネ1:9-14「神の幕屋としてのキリスト」(No.3)  

ヨハネ福音書連続講解(exegetical)メッセージの三回目になりました。今までの2回のメッセージでどんなことが語られたのか忘れてしまわれた方もいるかもしれませんので、少し前回の復習をしてみましょう。

1回目は、1章1節から3節からの話で、5つのことを語りました。(1)キリストは神のみこころを示す啓示者であること、(2)キリストは世界がはじまる前から初めから存在されていた先在者であること、(3)キリストは交わりの根源なる方であること、(4)キリストは神そのものであること、(5)キリストは創造者であること、こういったお話をしました。

2回目は、1章4節から9節までで、3つのことをお話しました。(1)ヨハネの序文は、キリストをほめたたえるために作られたロゴス賛歌とバプテスマのヨハネの説明文が交互にでてくること、(2)いのちとは、神との生きた親しい交わりの中に入ることを意味すること、(3)人は太陽と月の関係のように、まことの光であるキリストの栄光を反射してはじめて証し人として光り輝くことができること、つまり自分の栄光をあらわそうとして生きるのではなく、神の栄光をあらわそうとすることが証し人の務めなのである、…….こういったことをお話しました。

さてきょうはその続きで、何故証しが必要なのか、神の子とされる条件は何であるのか、そして「ことばが人となって私たちの間に住まわれた」とはどういうことなのか、ということについてお話をしていきます。

まず質問です。どうしてキリストを証しをする必要があるのでしょうか?どうしてバプテスマのヨハネがキリストを証し、教会がキリストを証し、クリスチャンがキリストを証する必要があるのでしょうか?

答えは10節にあります。

1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 

まことの光が世に来たにも関わらず、救い主がマリヤから生まれたにも関わらず、世界はこのキリストによって造られたにも関わらず、この世はこの事実に対して無知だからなのです。

キリストが私たち一人一人の造り主である神様であるにも関わらず、そのことを普通の人は知らないままでいるから、キリストはみなさんと関係があるのだ、みなさんの主なのだ、ということを証する必要があるからなのです。

次にユダヤ人と非ユダヤ人のちがいについてお話をします。

1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

神は、全世界の救いを準備するためにユダヤ人を選びました。神は、旧約聖書をユダヤ人に与えて、他のどの民族よりも多くユダヤ人に対してご自分がどんな者であるかを啓示なさいました。そして将来メシヤキリストが現れることを旧約聖書によって約束なさいました。

その約束の成就としてメシヤキリストがイスラエルに来られました。それなのに、キリストがご自分の家、マイホームに来られたにも関わらず、選びの民であるユダヤ人の多くはキリストを迎え入れませんでした。

ご自分の民であり、選ばれた民であるはずのユダヤ人の多くはキリストを受け入れず、かえって十字架につけて殺してしまったわけです。

ユダヤ人の多くは、家の主人が自分の家に帰って来られたのにも関わらず、受け入れなかったのです。

ユダヤ人の多くは、キリストの証も受け入れず、キリストも受け入れないという反応を示しました。

この罪深さは、ユダヤ人だけの罪深さではなく、すべての人の罪深さの結果です。ユダヤ人の罪がキリストを十字架につけたのではなく、人間の罪、私たちの罪がキリストを受け入れず、キリストを十字架につけてしまったのです。

大多数のユダヤ人はキリストを受け入れませんでした。その罪深さは、大多数の日本人がキリストの証もキリストも受け入れようとしないことと同じ罪深さです。

では大多数のユダヤ人がキリストを受け入れなかったことによって神の救いの計画が挫折してしまったのかというと、そうではありません。

少数であっても、キリストを受け入れた者、キリストの名を信じた者がいました。キリストを信じた者には、特権が与えられると書かれています。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエスキリストを信じた者には、救われて神の子とされる特権が与えられる、と聖書は約束しています。

神の民となる特権は、ユダヤ人だけの特権ではないのです。

ユダヤ人でなくても、だれでも神の民となることができます。

それが13節にはっきりと書かれています。

1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

「血」とは血統を意味します。血統は、神の民となれるかどうかと関係がないのです。「肉の欲求や人の意欲」つまり人間の力による達成(human achievement)ではなく、神が一方的に与えてくださる恵みを受け入れるだけでいいのです。

神の子供とされる特権とは、大変な特権です。

神の国の市民権を得て、神の家族のメンバーになるという特権です。救われる特権です。永遠の命を得る特権です。罪が赦されて、永遠の滅びから免れる特権です。天国に行ける特権です。

今自分の持っている罪が赦され、正しい者と認められ、神との正しい関係を回復し、神との親しい交わりに入ることができ、今永遠の命を持つことができるという特権です。

やみから光に、滅びから命に、サタンの支配から神の支配に移されるという特権です。

さらにキリストが復活したように、将来私たちも復活し、完全な栄光の体に変えられるという特権です。

そして将来、キリストとともに、世界の相続人となる、神の国の全財産を相続する共同相続人となるという特権です。

このすばらしい特権を得るためにしなければならないことは何でしょうか?

神の子とされ、神の民に加えられる条件は何でしょうか?救われてクリスチャンになることができる条件は何でしょうか?

何かいいことをすることでしょうか?

「私は洗礼を受けました。毎日聖書を読んで、祈っています。毎週教会の礼拝に欠かさず出席しています。だから私はクリスチャンです。」違うんです。

洗礼を受けること、聖書を読むこと、祈ること、礼拝に出席することは大切なことですし、それなしには健康なクリスチャン生活はありません。

しかし、その人間の行為が神の子とされる条件ではないのです。

親がクリスチャンだから、クリスチャンホームに生まれたから、だから自分はクリスチャンであるとも言えません。

血筋、血統は神の子とされることと関係ないと13節に書いてあります。

その条件はただ一つ、12節に書かれているように、「信じ受け入れること」だけです。

民族階級の区別なく、人間の努力や修行と関係なく、ただ今信じ受け入れるだけで、神の子とされる特権を与えられるのです。

12節をもう一度読んでみましょう。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった

12節に「.お与えになった」と書いてある通り、救いは神のギフトです。今日は、救いが神のギフトであること、プレゼントであることをしっかり理解していただきたいと思っています。

もしみなさんの友達が自分のために誕生日のプレゼントをもってきてくださったとしたらどうしますか?

「これGodivaのチョコレートでしょ。そんな高いものもらうの悪いなー。いくらで買ったの?半分払いましょうか。」

そんなことを言う必要はありません。

「これチョコレートです。」「いえ、悪いから、結構です。」そう言って受け入れなかったら、ギフトを差し上げようとした方にかえって失礼になります。遠慮して受け入れなかったら、かえって相手が怒るかもしれません。

中には「これチョコレートです、どうぞ。」といわれて、疑いはじめる人もいるかもしれません。「中に毒が入っているかもしれない。昔グリコのチョコレート事件があったしね。食べて大丈夫かな。」

毒入りチョコレートは愛する人からのプレゼントではありません。たとえ善意のプレゼントでも、疑おうと思えば疑えます。

でもプレゼントを下さった方が、本当に自分を愛してくれている人ならば、毒の入ったチョコを渡すことはしないはずです。

実はチョコレートというギフトをもらって、それを食べるということの中には、相手の善意を信じ受け入れるという要素が入っているのです。

プレゼントを差し出された時にどうすればいいのでしょうか?

もしも「はい、プレゼントです」と言われたら、みなさんの両手はどうなりますか?

両手をうしろにまわして、「でも.」「だって..」と言っていつまでもぐずぐずしていて受け入れなかったら、ギフトを差しあげようと思っている方は喜ぶでしょうか?

ギフトを差し出された時、すべきことは簡単なことです。

両手を前に出して「ありがとう」と言えばそうれでいいんです。

キリストの下さる救いはギフトです。私たちがすべき自然な反応は受け入れて「ありがとう」ということなのです。

キリストの救いをそのまま単純にギフトとして受け入れる、これだけでそのギフトは自分のものになります。

でも考えて欲しいのですが、ギフトをもらった時、受け取る側はコストがかかりません。でもそのギフトを贈る側にはコストがかかっているのです。

プレゼントを買うには、愛する人が犠牲を払ってお金をださなければなりません。

キリストが私たちに特権を与えてくださる神のギフトにも、高い犠牲、高価なコストがかかっています。どういうコストだったと思いますか?キリストの苦難と身代わりの命というコストでした。

私たちの罪が贖われるためにキリストは大きな犠牲を払ってくださいました。キリストは私たちの罪の代価を払うために、身代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。私たちが神の子とされるためには、十字架の犠牲が必要だったのです。

キリストを信じ受け入れるということは、ギフトを信じ受け入れるだけでいい、という簡単なことなのです。でもそれは、実は重大な決断が必要なことでもあります。

それはちょうど手術の時に、医者の手術を信じ受け入れるようなものです。医者が手術を実行する前に、患者本人の署名が必要です。「このお医者様は自分の病気を治してくれる力がある、この医者にかかれば大丈夫だ、」という医者に対する信頼がなければ手術に書名することができません。医者を信じ、医者を受け入れる必要があります。そしていったん「キリストという医者を信じます。私の罪の病気のための手術をしてもいいです」と同意したならば、自分の体を医者にゆだねなければなりません。これは全く受身のことです。

手術中に「ちょっと待ってください」と言って、メスの使い方や手術の順番について医者に指示を与えることはできません。手術台の上に自分の体をゆだねて、医者に全幅の信頼をおいてただ信じ受け入れるしかないのです。

患者は、手術の際に、自分に病気があることの事実を認め、手術しなければ助からないとこと知ります。そして、医者がどんな医者であるのか、信頼できる医者であるかどうか知ったならば、あとは医者に任せて自分の体を医者にゆだねることが必要です。これは全くの受身です。

キリストによって罪から救われることも同じです。聖書に「罪による報酬は死です」と書かれています。自分に罪という病気があることを知り、この罪の問題を解決し、救ってくださるにはキリストという医者が必要であることを知り、そのキリストに全部身をゆだねてお任せする、これが救われることの条件なのです。

キリストを信じ受け入れること、救われること、これは受身です。人間の努力によることではなく、一方的な神の救いの業を受けいれることなのです。13節に行きましょう。

1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

みなさん、新しい出発をしたいと思いませんか?人生もう一度やりなおしたいと思うことはありませんか?自分が変えられたいと思うことはありませんか?もう一度新しく生まれる方法があります。神様の力によって新しく生まれることができます。聖書によれば、人間が新しく生まれるのは、神によってしか方法がありません。血統によって神の子とされるのでもありません。人間の性欲によって人が生まれるように人の欲によって生まれてくるわけでもありません。人間の意欲や努力によって生まれてくるわけでもありません。神から新しく生まれる以外に、救われて神の子とされる方法がないのです。

生まれるというのは、受身です。自分の命は自分の力で誕生したわけではありません。神が与えてくださるギフトとして命を受けただけなのです。

イニシアチブは私たちにあるのではなく、神様にあります。神のみこころに従って神が命を与えてくださいます。そのことを信じてただ受け入れるだけで、永遠の命を自分のものにすることができるのです。

ユダヤ人か非ユダヤ人か、という民族的な違いを超えて、だれでもキリストを信じ受け入れた者には、神は命を与えてくださるのです。

14節に進みましょう。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

「私たちの間に住まわれた」とは、直訳しますと、「私たちの間に幕屋を張られた」(to pitch the tabernacle)と訳せます。この「私たちの間に礼拝用の幕屋テントを張られた」ということと、「この方の栄光を見た」ということはイスラエルの幕屋礼拝と深い関わりのある表現です。

まことの一人子なる神は、ここで神であると同時に、肉体をとって人間の形となり、完全な人間となられて、ナザレの大工の息子イエスとなってくださいました。

それとイスラエルの幕屋礼拝とどう関係するのでしょうか?

イスラエルの民は、エジプトを出て約束のカナンの地に向かいました。出エジプト以来、イスラエルの居住テントの真ん中に礼拝用の神の幕屋が立てられました。神の幕屋には、天からの雲の柱が立ってみえました。雲の形をした神の栄光が天からスルスルスルと降りてきて、礼拝用の幕屋テントの上におりてきました。夜にはその雲の柱が神の栄光のために光って、火の柱に見えました。神の幕屋とは、神の栄光を包む場所でありました。人々は、神の幕屋において神の栄光を見ました。

カナンの地に定住したあとも、イスラエルの人々は幕屋を中心に礼拝しました。人々はそこで神の栄光を見ました。エルサレムに神殿が建てられた時も、そこに雲の柱があり、神の栄光があったと伝えられています(I列王8:10-11)

8:10 祭司たちが聖所から出て来たとき、が【主】の宮に満ちた。

 8:11 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。【主】の栄光が【主】の宮に満ちたからである。

旧約の時代に、人々は神の幕屋で礼拝しました。それがソロモンによって神殿が建てられたあとも神殿中心の礼拝が行われました。

ユダヤ教の神学の中でも、タルグームというユダヤ教文書の中でshakan住むというヘブライ語の動詞から派生したshekinahという神の臨在の場所、神の地上における住まいという思想がありました。シャカン住むというヘブライ語の動詞から派生したmishkanという名詞が幕屋であります。さらにユダヤ教神学は、聖書の中にある言葉ではありませんが、shkinahという神の栄光が包まれた神の臨在の場が神の幕屋であるという理解がありました。神殿は地上における神の住まいであり、神の栄光があらわされる場であるという理解が、ユダヤ教の中でも広まっていました。

そういう時代的な背景の中で書かれた、ヨハネの福音書1章14節のみ言葉は、神の幕屋、神殿とキリストとの関係をはっきり伝えたユダヤ人の読み手に大きなインパクトを与えた言葉でした。

新約時代になり、イエスキリストが肉体を取られたということは、神の御子が人間になられ、神の幕屋、神殿になったのだという意味です。神殿礼拝がすたれて、キリスト礼拝にとって代わられたという意味です。神の栄光が人となったナザレ村のイエスという幕屋の中に囲まれ、イエスの体が神の栄光の宿る場所になったのです。神の栄光は、イエスの体によって包まれたのです。「ことばが人となって私たちの間に住まわれた」、とは直訳すると「ことばは人となって、私たちの間に幕屋を張られた」となっている意味がこれでおわかりいただけたでしょうか?

イエスキリストは、神殿であります。神殿とは、神が住まわれる場所です。神の栄光が宿る場所です。イエスキリストが人間になられたことと、キリストが神の神殿なのである、ということと同じことなのだ、ということがご理解いただけたでしょうか?

私たちは、イエスキリストという啓示者を通して、そういうことばコミュニケーションを通して神がどんな方であるかを理解することができるのです。

キリストが肉体をとられたということは、神の栄光が小さく小さくなり、人間という制約された存在になり、小さな光となって現れたことを意味します。

そのことをもう少し旧約聖書との関係の中で説明します。

旧約聖書の思想では、神は強烈な光にたとえられています。強烈な光のような神を直接見たら、汚れた人間は死んでしまうという思想がありました。

モーセは燃える柴の中で語られる主の使いをみた時に、顔を隠しました。モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて顔を隠しました。(出エジプト3:6)。また神は言われました。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33:20)イザヤは神殿で主の栄光を見ました。その時イザヤは主を見たので自分は死んでしまうと思ったのです。そのことがイザヤ6:3-5に書かれています。

6:3 (天使が)互いに呼びかわして言っていた。

   「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。

   その栄光は全地に満つ。」

 6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

 6:5 そこで、私は言った。

   「ああ。私は、もうだめだ。

   私はくちびるの汚れた者で、

   くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

   しかも万軍の【主】である王を、

   この目で見たのだから。」

 

みなさんは日食を観測したことがありますか?太陽を観測する時は、黒い下敷きとか、すりガラスのようなものを通して太陽の光を制限しないと、目がつぶれてしまいます。実際太陽の光を直接みて、失明した人もいるそうです。

神の栄光は、直接みたら、死んでしまうような強い輝きをもっています。ちょうど太陽の輝きをじっと見つめると、目がつぶれてしまうの同じです。直接神を見ることは人間にはできません。神の栄光を見るためには、神の栄光が小さく小さくなって、幕屋という包まれた制限された栄光に縮小される必要があります。イエスキリストという制限された幕屋、人間性という限界を持つ幕屋において、はじめて見られるものとなります。

ちょうど発電所の何万ボルトという電気は、変電所を通って小さいボルテージに下げられる必要があります。発電所の電線をそのまま電気スタンドにつないだら、その人は感電して死んでしまいます。電圧を、日本では100ボルトまで下げて始めて電気スタンドの電球につなげられます。同じように、神の栄光は、制約された形になり、イエスキリストというかたちになってはじめて私たちは神の栄光を見ることができるのです。

神の真の輝きをうんと小さくすることによって、罪深い私たちに神様の姿を見ることができるのです。

神がへりくだり、おりてきて、小さく小さくなって、はじめて私たちは神の姿を目で見ることができるようになったのです。

イエスキリストは、変貌山において栄光の姿をペテロとヨハネとヤコブだけに特別に現したことがありました。

ルカ伝9章28-35にその記事があります。

ペテロは、イエス様の栄光の姿を見ると、幕屋を作りたいといい始めました。

マタイ17:1-5を引用します。

17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。

 17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

 17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。

 17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

 17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

何故ペテロが「幕屋を作ります」などと突拍子もないことを言い出したか、お分かりですか?ペテロはイエスの栄光を見たからなんです。ペテロはイエスの栄光を包み、自分のものにしたかったので「幕屋をあなたのために作ります」というようなたわけたことを言ったわけです。

栄光の雲は神の臨在の象徴です。神の栄光を包む場所が幕屋なのです。

キリスト教会では、建築物としての神の幕屋、神殿はもう要りません。ぺテロは神の栄光を見ても、幕屋を作る必要はなかったのです。その理由は、イエスキリストの体そのものが、神の栄光が包まれた神殿であるからです。弟子達がもう幕屋を作る必要はない、神殿中心の礼拝はいらない、キリストの体が幕屋神殿なのだ、ということに気がついたのはずいぶんあとになってからでした。

私たちは、イエスキリスを信じ受け入れるだけで、イエスキリストの体という幕屋、神殿において神の栄光を見ることができます

もう一度、1章14節の「私たちはキリストにおいて神の栄光を見た」というみ言葉の深さを味わってみましょう。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

神は肉体をとってまことの人間となってくださいました。この肉体をとられたイエスキリストの体は、神の栄光が宿る幕屋、神殿、神の宮であるのです。このイエスキリストにおいて私たちは礼拝することができ、イエスキリストにおいて私たちは、神と出会い、祈ることができます。グローリーチャーチ高松の礼拝においても、キリストの栄光を感じ取ることができ、キリストの名前において神に祈り、礼拝をささげることができたらすばらしいなと思っています。キリストは恵みの源です。このキリストを自分の罪からの救い主として信じ受け入れ、キリストの恵みを受けながらキリストの栄光をたたえながら恵みに満ちた生活を送っていただきたいと願っています。