ヨハネ1:29「神の子羊」(The Lamb of God) (No. 8)

明日から3日間道後温泉で西日本JECAのファミリーキャンプが開かれます。ノンクリスチャンも二人参加されます。このキャンプがクリスチャンにとって信仰の養いの時となるように、またノンクリスチャンにとって、救いのきっかけになり、決心が与えられるようにお祈りください。

さて、先週の礼拝では、バプテスマのヨハネについてお話しました。ヨハネは言いました。ヨハネは、自分はキリストではない。エリヤのように道備えをする者だけれども、エリヤそのものが天から再来したのではない。また申命記18章に約束されたモーセのような「あの預言者」でもない。あとになってあの預言者とはキリストをさすことがわかったのですが、一般の理解ではキリストとあの預言者とは区別して理解されていたので、別々の質問となったわけです。「ではお前は何者だ」と言われて、イザヤ40章を引用して「私はキリストの道備えをする声にすぎない。あとからくる偉大な方を指し示す証人に過ぎない。」と答えたわけです。ヨハネは徹底的に自分のすばらしさをみせることをは控えて、謙遜にキリストを紹介することに全力を傾けた証人でありました。こんなことを先週お話いたしました。

きょうはヨハネ1章29節にある「世の罪を取り除く神の子羊」ということの意味についてお話をしたいと思っています。

この「神の子羊」という言葉には大きくわけて三つの意味があります。

(1) イエスキリストは過ぎ越しの羊

第一が、イエスキリストは過ぎ越しの羊であるという意味です。

昔イスラエルの人々はエジプトで長い間奴隷となっていました。イスラエルの人びとをしいたげてきたエジプトの圧制からイスラエルを救うために、またアブラハムイサクヤコブの神がまことの神であることを示すために、かたくななエジプトのパロつまりエジプトの王に対していろいろな災害を下しました。それでもパロはますますかたくなになり、イスラエルの民をエジプトから離れる許可を与えませんでした。どうしても神の言葉に聞き従おうとしないエジプトのパロに対して、神は滅びの使いを送り、エジプトの長男を殺されました。

ただ神の約束を信じて、傷のない子羊をほふって、その血を門の柱とかもいに塗り、家の中にとじこもっている人には、滅びの災いは過ぎ越していくという警告を与えました。イスラエルの人は、神の言葉どおりに羊の血を門柱をかもいに塗りました。すると贖いの血の力を信じた人には、滅びの災いは過ぎ越していきました。

ところが神の警告を信じないで、羊の血を門柱とかもいに塗らなかったエジプトのすべての家には、災いがやってきて、長男がみな死にました。パロの長男も死にました。それでようやくパロはイスラエルがエジプトを出る許可を与えたのであります。

こうして神の言葉に従い、それを信じて子羊の血をかもいに塗ったイスラエルの人々には子羊の血によって滅びの難を逃れたのでありました。

災いが過ぎ越したという出来事から過ぎ越しの祭りが始りました。ユダヤ人たちは、今でも過ぎ越しの食事をしています。この過ぎ越しの祭りのお祝いの食事をセーダーミール(Seder Meal)といいます。

私の家では毎年過ぎ越しの食事をする予定でいます。パンや肉やにがよもぎや塩につけたたまごやいろいろな名前のついたワインの杯などがでてきます。にがよもぎは手に入りにくいので、たいていパセリで代用します。聖餐式では、最後のワインを「これは私の血である」といって、主ご自身が贖いのために血を流される契約の象徴としての過ぎ越しのワインをご自分の十字架の犠牲の象徴となさいました。

第一コリント5章7節にはこう書かれています。

5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

といってキリストが過ぎ越しの祭りの羊なのだ、と説明しています。

イエスキリストは、神殿に過ぎ越しの子羊が引かれていく日に、イエスキリストの死刑が確定し、ゴルゴダの丘に死刑囚として引かれていったのです。

ヨハネ19:14-15を引用します。

19:14 その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」

 19:15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。

過ぎ越しの時には、血を塗る道具としてヒソプが使われました。出エジプト記12章21節から27節をお読みします。

12:21 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。

 12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。

 12:23 【主】がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、【主】はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。

 12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。

 12:25 また、【主】が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。

 12:26 あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか』と言ったとき、

 12:27 あなたがたはこう答えなさい。『それは【主】への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。

これが過ぎ越しの祭りの由来です。ついでに言うとセーダーミール過ぎ越しの祭りの食事の時には、子供も参加します。子供は『この儀式はどういう意味ですか』と聞くせりふがあります。それは出エジプト記12章26節に基づいています。いつか過ぎ越しの食事の詳しい悦明をしたいと思っています。

イエス様が死ぬ直前に、スポンジをしみこませたぶどう酒を受け取りますが、それはヒソプの茎につるされたものでした。ヒソプの茎は、過ぎ越しの祭りの時に門とかもいに子羊の血を塗るときに使う植物です。

ヨハネ19:29を読みます。

19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。

 19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。

また出エジプト記では、子羊の骨は折ってはならないことになっています。出エジプト記12章46節を見てください。

12:46 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。

ヨハネは19章36節でイエスが殺された時に、イエスの体の骨は折られなかったと断っています。

19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。

これは過ぎ越しのいけにえの羊を意識した表現であるといえます。過ぎ越しの血は、エジプトの奴隷状態からの解放と、神に対する不従順による滅びが過ぎこすことをを意味します。同じように、イエス様が十字架で流された血も、罪の奴隷からの解放と滅びからの解放を意味するのです。

イスラエルの民は、神様に贖われ解放されました。同じようにイエスキリストを信じた者には、贖いがあり、解放があるのです。神の子羊とはエジプトの奴隷状態からの贖い(redemption)の時の子羊、そして罪を贖う贖罪(atonement)の子羊を指す表現です。

 

(2)

第二に「神の子羊」とは、イザヤ書53章に預言された苦難の僕を意味します。

イザヤ53章7節に、私たちの罪のために痛めつけられ殺されて行く苦難の僕が子羊にたとえられています。

イザヤ53章7節を引用します。

53:7 彼は痛めつけられた。

   彼は苦しんだが、口を開かない。

   ほふり場に引かれて行く羊のように、

   毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、

   彼は口を開かない。

十字架の道を子羊のようにだまっておとなしく無抵抗で引かれていくイエスキリストの姿が旧約聖書で預言されています。イエスキリストは黙々として自分の十字架をかつぎ、おとなしく神の刑罰を自分から進んで受けてくださいました。私たちの身代わりとなって死んでいった苦難のしもべ、これが神の子羊の姿であります。

旧約時代にいけにえとして羊を捧げる時には、きずもしみもない完全な子羊をささげなければなりませんでした。

これは罪のないキリストの完全性を示しています。

創世記には、イサク物語のところで、ひとり子イサクを殺せと命令された時に、それを知らないイサクは父アブラハムに尋ねました。

22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

 22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

そしてアブラハムがひとり子イサクを殺そうとしたときにまったがかかりました。そしてその代わりに、お羊がやぶにひっかかっているのを見出しました。

22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

 22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

このアブラハムがイサクをささげようとして、そのかわりに主が羊を備えた場所モリヤの地が現在のエルサレムであります。ここはイエスキリストが死刑の審判を受け十字架につけられた場所でもあります。イエスキリストはまさに私たちの罪を取り除き悪魔の働きを滅ぼすために神ご自身が備えられた身代わりのいけにえの子羊だったのです。

キリストはまさに世の罪を取り除く神の子羊なのです。神の子羊とは、創世記に出てきた身代わりの子羊、イザヤ書に出てきた私たちの罪の身代わりのために苦しみを受けた苦難のしもべとしての子羊なのです。身代わりの子羊、これが第二の意味です。

 

(3)罪の力に対する勝利者の象徴

第三に、子羊は世と世の力に対する勝利者を意味します。これは黙示文学(Apocalyptic literature)に慣れていない私たちには、たいへん難しいことなのですが、子羊は勝利の象徴なのです。勝利者であればライオンか鷹のようなもっと猛々しい猛獣か猛禽類をシンボルマークを使えばよさそうなのですが、黙示文学では子羊が勝利のシンボルマークに使われるのです。

実は紀元前1-2世紀ころからユダヤで救い主のことを子羊のたとえで描く黙示文学(Apocalyptic literature)がはやっておりました。

その黙示文学をちょっと引用してみます。

「そこで私は見た。ひとりの処女が1頭の子羊を産んだ。

その左手には獅子のような者がいた。そしてすべての獣が彼に襲いかかった。が子羊は彼等を打ち倒し、彼等を滅ぼし、足の下に彼等を踏みつけた。彼の故にみ使いも人々も全地も喜びおどった。」

「十二族長の遺言」の中の「ヨセフ」19:8-9、「ベニヤミン」3:8や、「エノク書」90章38節)

新約聖書の黙示録に出てくる子羊も、死に打ち勝ち、サタンと戦いこれに完全な勝利を収める裁きの神、王の王としてキリストが描かれています。

黙示録では、サタンの打ち勝つことができるのは、子羊の血と証であると書かれています。

黙示録12章11節を引用します。

12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

子羊の血と福音の証が合体するところにサタンに勝つ勝利の秘訣があるのです。キリストの流された血が私たちを罪から清め、神のみことばを証することによってサタンは私たちから逃げていくのです。

黙示録12章から14章には、竜や獣がいて、それに子羊についていく者との戦いが書かれています。

黙示録14章1節と14章4節に子羊が神の民の指導者として書かれています。

14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。

14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。

そして子羊は礼拝を受けられ、とこしえに治められる神の国の王であります。

黙示録5章8節から14節を引用します。

5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。

 5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。

   「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い

 5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」

 5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。

 5:12 彼らは大声で言った。

   「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

 5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。

   「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

 5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ

みなさんにお聞きしたいことがあります。今もしイエス様があらわれたらどうしますか?「やあこんにちは、イエス様。元気ですか?」そう言って握手しますか?

とんでもない。もしキリストがあらわれたら、長老たちがしたように、ひれ伏して拝むことが正しい態度だと思います。

弟子たちが復活の時までにそうしなかったのは、弟子達にはイエス様が神であることに気がつかなかったからです。イエス様の人間のかたちをとっているものだから、本当の姿にきがつかなかったのです。ちょうど水戸黄門が隠居の町人の姿をして町を歩いている時には、人々はなれなれしく話をしていました。しかし、いんろうを見せて正体を明かして、「先の副将軍水戸の光圀公であるぞ、控えよ。頭が高い。」と言われると、ハハーとひれ伏しました。イエス様が復活されて、本当の姿を現すと、弟子たちはひれ伏したと書かれています。ヨハネ黙示録5章14節でも、長老たちが、子羊にひれ伏して拝んだという幻が描かれています。

バプテスマのヨハネはヨハネの福音書1章でいみじくもこう言っています。

「私はその方のくつのひもを解くねうちもありません」

靴というと聞こえがいいですが、正しくはサンダルです。

砂ぼこりをかぶったサンダルです。サンダルのひもを解くのは奴隷しかしない一番いやしい仕事です。

これさえもするには私はふさわしくありません、私は子羊の栄光を現す声に過ぎませんと自分を低くしています。

ですからもイエス様と出会った時に私たちがとるべき態度は、対等の握手ではなく、礼拝がもっともふさわしい態度です。

黙示録ではほふられた子羊への礼拝と祈り(8節)と賛美(12節)が描かれています。もう一度5章12節を読みます。

5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。

 5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。

   「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、

 5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」

 5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。

 5:12 彼らは大声で言った。

   「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

 5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。

   「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

 5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

もうひとつみなさんにご質問したいことがあります。

みなさんは、礼拝の時にだれのことを考えていますか。自分のことを考えていますか。それともイエス様のことを考えていますか。だれを見つめていますか。自分のことばかり見つめていますか?それともイエス様のことを見つめていますか?

ある人は、自分のことばかりみつめて、優越感に浸っています。ある人は自分のことをみつめてばかりいて劣等感に浸っています。でもバプテスマのヨハネはいいました。「見よ」だれを見るべきなのでしょうか?世の罪を取り除く神の子羊イエス様からしっかり目を離さないで、見つめていただきたい。

「見よ。あなたの罪を取り除く、神の子羊を見なさい。」と証人はあなたを招いています。

子羊は勝利の象徴です。血による勝利の象徴です。

みなさんの中に無気力で弱々しく敗北感と挫折に満ちたクリスチャン生活を送っている人はいないでしょうか?

いつもただ自分を責め、自分のいたらなさ、罪に勝てなかった失敗、そういうことばかり見つめている面が強い人はいないでしょうか?

イエスキリストがイスラエルに公に現れた最初の日、バプテスマのヨハネがイエス様を紹介した時は、そんなじめじめした雰囲気ではありませんでした。

もっと栄光に満ち、力に満ちていました。

「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」

ヨハネは、罪を取り除く勝利の子羊、贖い主の子羊を紹介しているのです。

イエス様は、私たちの罪を赦し、罪を取り除き、罪を清め、義人として立たせてくださる方なのです。

弱くだらしない自分の内側をじくじくみつめてばかりいないで、神の子羊であるイエス様を見つめましょう。

子羊は、世の罪をうち滅ぼしていく勝利の主、王の王なのです。

自分をみてがっかりするのではなく、イエス様を見て、イエス様を礼拝し、イエス様の栄光を現すよい証人になろうではありませんか。

子羊の栄光をたたえる讃美歌を歌ってキリストを礼拝しましょう。

贖いの子羊、身代わりの子羊、罪に対する勝利の子羊であるイエスキリストをしっかり見つめ、キリストに心を向けながら生活していだきたいと願っています。