ヨハネ1:16「主の恵み」(The Grace of the Lord)(No.4)  

1、満ち満ちた豊かさ

ヨハネ福音書の連続講解説教の4回目となります。きょうは、ヨハネ伝1章16節の短いところから、お話をいたします。

来週は、17節18節から律法と恵みの関係についてとキリストのユニークなご性質についてお話いたします。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

ここに「満ち満ちた豊かさ」(fulness)ということばがあります。日本語では二つのことばですが、原語ではプレーローマ(pleroma)という一つの言葉です。これは豊かに満ちているもの、いっぱいになったもの、無尽蔵なほどいっぱいになったもの、という意味です。

「この満ち満ちた豊かさ」は、どこにだれのうちに何が満ち満ちているのでしょうか?

同じ「満ち満ちた」と同じことばがコロサイ書の1章19節と2章3節にあります。

1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質御子のうちに宿らせ、

2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちた性質が形をとって宿っています。

この「満ち満ちた」fulnessが「プレーローマ」というヨハネ1章16節と同じ言葉です。

どこに何がいっぱいにになっているのかと申しますと、ありとあらゆるよいもの、私たちに必要なものが全部キリストのうちにある、という意味です。

何がキリストのうちにあるのでしょうか?コロサイ書によれば、神の本質、性質が宿っているとあります。

神の性質、神の本質ですから、ありとあらゆるものがキリストのうちにあります。

何がいっぱい詰まっているのか、その定義を必要としないのです。知恵、知識、正義、美しさ、力、生命、そういうありとあらゆるすばらしい宝の根源はキリストにあります。

「キリストのうちに、知恵と知識が隠されている」(コロサイ2:3)とコロサイ書はいいます。

2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

この満ち満ちたキリストの豊かさは、あふれ出て私たちにも恵みとなって及んでくるのです。

パウロはエペソ書3章でこんなふうに祈っています。

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

 3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

パウロは私たちの二つのニードのために祈っています。

第一は、16節で、自分は弱っている、力がない、疲れている、だから強くされる必要がある、というニードです。

第二は、愛することがなかなかできない、キリストの大きな深い愛を知り、愛の人になる必要がある、というニードです。

そういうニードを持っている私たちが、神のすばらしい豊かさを私たちも受け、キリストの豊かさで満ちた人生を歩むことができるように、という祈りなのです。

ヨハネ1章16節に戻ってください。

16節の主語は、「私たちはみな」であります。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

14節にも「私たちの間に住まわれた。」「私たちはこの栄光をみた」と私たちと関係があることを強調しています。

このところでも「満ちた」という「満ち満ちた豊かさ」(プレーローマ)の形容詞形が使われています。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた

ヨハネ1章14節は、ここに「住まわれた」と書いてありますが、先週お話いたしましたように、直訳すると「テントを張る、幕屋をはる」という意味です。

神の栄光が礼拝所である神の幕屋の中に包まれた時、イスラエルの民は神の臨在を感じました。

この幕屋はイスラエルの民の居住地の真ん中に置かれました。これと同じように、ナザレのイエスの体がテント、神の幕屋となって、神が肉体をとり人間の形になったわけです。

この「私たち」とは、厳密にいうと、「信じてキリストをこの目で見た私たち」です。イエスキリストを受け入れた人でないと、「神が人となって私たちの間に住まわれた」と認めることができないのです。神は信じた私たちの間に住まわれて臨在なさったのです。

さらに16節では、「私たちはみな」と私たちの範囲が広がっています。

復活の栄光をこの目で見た証人だけでなく、恵みは復活を見たことがない一世紀の末のヨハネの福音書の読者にも広がり、さらに私たちにも「みな」恵みが広がってきているのです。

なぜ「私たちみな」が恵みを受けたのでしょうか?それはキリストが恵みとまこと(真実、真理)に満ちた泉だからです。

このキリストの豊かな恵みの泉がこんこんと湧き起こり、あふれ出て「私たちみな」が豊かな恵みを受けることができるのです。

14節にあるようなキリストの目撃者の「私たち」だけにとどまることなく、キリストを受け入れた「私たちみな」がキリストを知る体験をし、「私たちみな」がキリストから恵みを受け、キリストによって生かされるすばらしい体験をすることができるのです。

一つの恵みを受けたらそれで尽きてしまうような恵みではない。さらに新しい恵みを受け、「恵みの上にさらに恵みを受け」ることができるのです。

いつも水をこんこんとあふれさせる泉のように、神の恵みはいつもいつもあふれ出てきます。汲めども尽きぬ泉からいつも新鮮な水があふれでてくるように、私たちはいつも新しい恵みを受けることができるのです。

無尽蔵なキリストの満ち満ちた豊かさがこんこんと私たちにあふれでてくるのです。

昔はよかったというような一時の思い出話に終わらない、いつも新しい恵みを頂くことができるのです。

疲れた時には安息の恵みが与えられます。

病める時には、心身のいやしが与えられえます。

悲しんでいる時には慰めが与えられます。

経済的に困っているときには、その必要が満たされます。

仕事を失って困っている時には、新しい仕事が与えられます。

弱っている時には力が与えられます。

迷っている時には導きが与えられます。

罪にさいなまれている時には、罪が赦されたことの喜びが与えられます。

信仰に疑いが入ってきたときには、確信が与えられます。試練の時には逃れる道が与えられます。

神は、私たちのあらゆるニードに答えることができる方です。私たちは、あらゆる形の恵みを受け、恵みの上にさらに恵みを受けることができるのです。それは教会のリーダーだけが受けるのではない。イエスキリストを信じる者みなが、「私たちみな」が信仰によって受けることができるのです。

以前私は17歳の高校生の時に祈祷表をもらってそこに書き込みをしたことがありました。その祈祷表には4つの欄にわかれていました。4つのタイプの祈りをするようにと言われたことがありました。

第一が願いでした。第二がとりなしの願い、だれかのためのとりなしの祈り。第三が感謝。第四が賛美でした。

その祈祷表を見たとたんに、私は第一の祈りしかしていないことに気がつき、恥ずかしくなりました。

その時から他の人のための祈りが始まりました。

自分がどういうお願いをしたか、だれかのためにどういうとりなしの祈りをしたか、私は忘れてしまうことが多くありました。祈りの表に書き込んでいるうちに、しばらくして気がついたことがありました。自分が前に祈ったことがどんどん聞かれているということに気がつきました。

すると前にお願いしたことが聞かれことの感謝の祈りも増えてきました。そして祈りが聞かれて、神を賛美する言葉も増えてきました。

しばらくすると、もっと大きなことに気がつきました。今までお願いしたことがほとんど聞かれていたのです。神様の恵みが次から次へと降りそそがれていることに気がつきました。

すると今お祈りしたことも御心であればみな聞かれるのではないかと信じてお祈りすることができるようになりました。

祈りが聞かれるとわかると、だんだん祈りが大胆になっていきました。大胆な祈りをしても聞かれるのです。

ちょっと世間の常識ではうまくいかないかもしれないようなこともうまくいくようにというようにというような、ずうずうしい祈りをしはじめました。そういうずうずうしい祈りでも聞かれました。

また危ない時、神様に泣きつくようにしてお祈りしました。「助けてください。」ってね。その泣きつく祈りも聞かれることを経験で知るようになりました。

キリストの溢れる恵みがぴんと来ない方のために、ちょっと例を出してみます。

2018年1月の新年聖会の講師が牧野直之先生という元OMFの日本のディレクターの人がきます。私は、今度の新年聖会の委員長というお世話係になりましたので、その牧野先生との関係を証したいと思っています。彼は以前Hi-B.A.という聖書を高校生に教えるグループのスタッフをしていたことがありました。私は当時高校生でした。その牧野先生は、これから自分はOMFの宣教師になるんだという夢を語ってくれました。そしてOMFnon-solicitation policyをとっているんだ、献金のサポートの懇願をしない団体なんだという説明を渋谷のH-B.A.センターでしてくれました。つまりこの宣教団は、献金をアピールすることを禁止している団体なのです。献金をアピールしなくても必要は与えられると信じ、信仰によって生きていけると信じているグループなのです。私は、献金をアピールしなくても生きていける、親に頼らなくても生きていける、信仰によって生きていけると信じるという方針がたいへん気にいりました。

そしてOMFに入る前に、シンガポールにあるDTCという神学校に入るんだというビジョンを語ってくれました。そして彼のビジョン通り、シンガポールにあるDTCという神学校を卒業し、OMFという宣教団に加入してタイの宣教師になりました。

私は、日本の神学校を卒業して、もうちょっと勉強するために北米の大学院に入りたいというビジョンをもっていました。

私がカナダへの留学が決まった時に、私はこの牧野先生のおっしゃったOMFの方針を個人的に実行してみようと思いました。そしてその時以来一切献金のアピールをしないという方針を実行しはじめました。

最初カナダに留学に行くと決まった時に、私は親にも教会にも頼らずに留学生活をしはじめました。

最初は、学生ですから外で労働することは禁じられていました。留学生は、貯金と経済的な裏付けと健康と学校側の証明書がみなそろっていなければ留学を続けることはできないのです。そんな中で、親からも教会からもサポートを頼まないでどうやって生きてこれたのでしょうか?

初めは、1年分の貯金があり、スカラーシップとアシスタントシップがありました。でもそのあとどうしたのでしょうか?

祈って与えられたのです。

祈るたびごとに、神様は必要を次々に与えてくださいました。詳しいことをこまごまと語る時間がありませんが、

ざっとかいつまんでお話します。

私はみことばを語る機会を祈りました。すると与えれました。アメリカのウエストミンスターという学校に移る機会を与えられました。そうすると与えられ、スカラーシップも与えられました。カナダに戻り、集会をすることを祈り始めました。すると二つの集会が生まれました。

その集会のために家を一軒借りることを祈り始めました。すると家を一軒借りることができました。学生でありながら、労働ビザが与えられました。フルタイムの牧師になり、教職者になり按手を受けることを祈りはじめました。するとその通りフルタイムの牧師になり按手を受けて正教師になりました。

家を買うことを祈りはじめました。すると家が与えられました。トロントでフルタイムの牧師をしていたころ、牧野先生がOMFの用事でトロントに来られた時に、教会で説教をしていただきました。そのことがきっかけで、カナダから牧野先生と同じOMFの宣教師になる機会が与えられました。全然サポートベースがないのに宣教師になりました。そして牧野先生が卒業したDTCの神学校で神学を教える機会が与えられました。ビザの関係でカナダにもどらなければならなくなったあとも、神のめぐみによって、アメリカでゼロから開拓伝道をする機会が与えられました。お金が何もない時に、無料で大きな会堂を使用する機会が与えられました。お金が何もない時に、グランドピアノが与えられて、コンサートができるようになりました。さらに無料でカナダの健康保険を外国で使う許可が与えられました。前の奥さんをがんで失ったあと、再婚の機会を祈っていました。するとJECAの教会のメンバーである新しい奥さんが与えられました。昔日本で牧師になる機会を祈っていました。

すると、やっと高松での牧会の機会が与えられました。

それはグローリー教会高松にとっても、祈りがかなえられたことでした。

娘の結婚相手がなかなか決まらないで気をもんでいました。すると去年結婚式がありました。そして今年の

12月におめでたの予定となりました。

簡単に経歴をお話したようなお話になりましたが、ひとつひとつが神様の不思議な恵みとして証できることです。

とにかくいいたいことは、私は神様から恵みにつぐ恵みを与えられてきました。

それは私だけでなく、主を信じて待ち望むすべての人に与えられることなのです。

主は教会の必要を満たすために、教会に恵みを与えてくださいます。主は、家庭の必要を満たすために家族に恵みを与えてくださいます。主は仕事の必要を満たすために、働く人に恵みを与えてくださいます。主は、勉強の必要を満たすために、学生に恵みを与えてくださいます。

私たちは弱さを持っています。有限で不完全であらゆる点で不足を感じます。いたらなさを感じます。

けれども私たちがキリストとつながる時、無尽蔵な満ち満ちた恵みの源とつながることができるのです。そこに私たちの生活のさまざまな問題の解決の秘訣があるのです。

私たちがキリストの豊かな恵みを受ける時、心に喜びがあります。平安があります。恵みの上に恵みを受けるとき、私たちは幸せを感じます。

私たちが何かのニードを感じ不足を感じ、そのために求めて与えられれば与えられるほど、恵みが恵みとして意味を持ってい来るのです。ありがたみを感じることができるのです。

みなさんは、主から今までどんな恵みを受けたか、考えてみたことがありますか?数えてみたことがありますか?そして考えれば考えるほど、数えれば数えるほど、どんなにいままで主から恵みを受けてきたかを実感できるのではないでしょうか?16節は、恵みを受けてきたことの感謝の告白です。私たちも16節に書かれているように「恵みにつぐ恵みを受けてきたな」、と告白できます。

恵みは、2年前に受けた。1年前に受けたことがある、というような、過去のことで終わりません。

先週も今週も受けてきたし、これからもふんだんに受けることができます。

恵みの源であるキリストにしっかり結びつく時、その人はだれでも「自分は主から恵みの上にまた恵みを受けてきた。恵みの連続だった。」と告白できます。みなさんひとりひとりが、恵みの源である主イエスキリストにしっかりつながり、主からふんだんに恵みを受け、その受けた恵みを証する生活を送っていただきたいと願っています。