ヨハネ1:18「目に見えない神」(No. 6)

1、目に見えない神

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

先週はヨハネの福音書1章17節からモーセの律法とイエスキリストの恵みについて比較してお話しました。

きょうは1章18節から、目に見えない神という題でお話をいたします。

ある5歳の子供が関西弁で先生に疑問をぶつけました。

「神様は目には見えへんで。何でいるってわかるんや。」

神様は目に見えない。見えない神様がどうしているとわかるのか、もしいるならどういう神様なのだろうか、どうやってそれがわかるのだろうか?みなさんの中にはそういう疑問をもっている方もいるかもしれません。

“Seeing is believing.”「百聞は一見にしかず」だ。目に見える形にならなければ、よくわからない。

そういう人もいます。「神様を見せてくれ、そうしたら信じるから」そう思っている方もいるかもしれません。

1961年4月12日、旧ソ連は初の有人の人工衛星ボストーク1号を飛ばしました。わずか1時間48分の宇宙飛行でしたが、人類最初の宇宙飛行士となったユーリ・ガガーリンは「地球は青かった。」と言いました。またガガーリンは、地球を何周かして言いました。「天には神はいなかった。あたりを一生懸命ぐるぐる見まわしてみたがやはり神は見当たらなかった」。地球をちょっとまわったぐらいで神が見えるわけではありませんが、当時無神論国家であったソ連を喜ばせるためにそう言ったのでしょう。

ところが今はロシアでも中国でもクリスチャン人口の方が無神論者人口よりもはるかに多くなっています。

おもしろいことにアメリカの宇宙飛行士のほとんどが、何らかの神体験をしているのです。

ちょっと例をあげてみましょう。

1966年6月6日(日本時間)2時間5分の宇宙遊泳新記録を作ったサーナン米宇宙飛行士は、宇宙体験で最も大きかったのは、神の存在を確信したと語りました。「宇宙から地球を見るとき、そのあまりの美しさに打たれる。なんらの目的なしに、偶然のみによって、これほど美しいものが形成されるはずがない」と語って、神がいらっしゃることを確信したと証しています。

「宇宙体験」によって、神体験をした代表的人物がジム・アーウィンです。

ジム・アーウインはアポロ15号に乗る前は、神がいるかどうかよくわからないと思っていました。ところが月に行って彼の人生はすっかりかわりました。彼はこう述懐しています。

「・・・かくも無力で弱い存在が宇宙の中で生きているということ。これこそ神の恩寵だということが何の説明もなしに実感できるのだ。神の恩寵なしには我々の存在そのものがありえないということが疑問の余地なくわかるのだ。宇宙飛行の時まで・・・人並みの懐疑もあった。神の存在そのものを疑うこともあった。しかし、宇宙から地球を見ることを通して得られた洞察の前にはあらゆる懐疑が吹き飛んでしまった。・・・正直言って、私は自分で驚いていた。」 彼の参加したアポロ 15 号はジェネシス・ロックと言われる風化現象の起こらない46 億年前の岩石サンプルを持ち帰りました。彼は、ジェネシス・ロックの発見は偶然ではなく、神の導きによるものだと証しました。彼は宇宙で、月で、神がすぐ近くにおられるという臨在を実感し、回心したのです。

宇宙体験は多くの宇宙飛行士を敬虔にし、「神の存在」をより身近に感じさせるものとなりました。

ジム・アーウィンはその後伝道者になりました。

アポロ16号のチャールズ・デュークも月を歩いたあとクリスチャンになり、そして伝道者にもなりました。

神様は、目に見えません。では神様が人間になり、目に見える形になったらどうでしょうか?神様が人間のところまで降りてきて、目に見えるようになったら、神様がどんな方かよくわかるのではないでしょうか?

実は、これがイエスキリストの姿なのです。神様は目に見えません。だからどういう方なのかよくわからない。そう思っている人間に、神様がどんな方なのかご自身を示し啓示なさった方、これがイエスキリストなのです。

18節のところから、四つのことをお話します。

 

2、神であるキリスト

第一が、キリストはまことの神であり、まことの人であるということです。イエスキリストは、神であるのにも関わらず、私たちのために神であるありかたを捨てて肉体をとり人間の形をとり、まことの人間になってくださいました。

ここは、ヨハネ1章1節と並んで、キリストが神であるということをもっともはっきり言った聖書の箇所です。

ヨハネ1章1節と14節と今日のテキスト18節を引用します。

1:1 初めに、ことば[イエス・キリスト]があった。ことば[イエス・キリスト]は神とともにあった。ことば[イエス・キリスト]は神であった。

1章14節。

1:14 ことば[イエス・キリスト]は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神[イエス・キリスト]が、神を説き明かされたのである。

紀元後4世紀はじめにアリウス(Arius)という人のもとでアリウス主義(Arianism)という異端が起こりました。アリウス主義は、キリストは神の子だけれども神ではなく被造物であると説いたのでした。この異端に対抗するために二ケア信条(the Creed of Nicea)が325年に作られ、381年に二ケアコンスタンチノポリス信条(the Nicene Creed)が作られて、正統なキリスト教がアリウス主義の異端と区別されました。この二ケア信条は、使徒信条(the Apostle’s Creed)と並んでカトリックやプロテスタントも含めた全てのキリスト教会の共通の信条となりました。

アリウス主義は今は滅びてその名前を知る人は少なくなりましたが、当時は広くはびこった異端でありました。そのアリウス主義とそっくりの教えが現代でもあります。それが「ものみの塔」(Watch Tower)とかエホバの証人(Jehovah’s Witnesses)と呼ばれているグループです。何故このグループが異端なのか、何故本物のキリスト教でないのかと申しますと、ヨハネ福音書1章18節の聖書の言葉に見られるような聖書の教えに反しているからです。彼等は、イエスキリストが神であることを否定したことによって異端と考えられています。彼等は、原典(Original manuscript)とはとても考えられない写本をもってきて聖書を書き換えています。

エホバの証人の考え方は、正統主義と異端を区別する二ケア信条によってとっくに異端であると宣言されたアリウス主義とそっくりです。

一般のノンクリスチャンの方には、どれが本物のキリスト教でどれが偽者なのか、区別がつかない人も多いかもしれません。

正統なキリスト教のラインに乗っているグループはカトリックもプロテスタントもオーソドックス教会(Orthodox Churches)もみなキリストが神であると告白しています。きょうみなさんといっしょに唱えた「ニケア信条」は、「使徒信条」と並んで、カトリックもプロテスタントも正統的なキリスト教会が共通して告白している信条です。このラインからそれたキリスト教はにせものであるとご理解いただければいいのではないかと思っています。キリストの神性(divinity)を否定する者はみな異端であると言ってかまいません。本物のキリスト教はみな共通して、三位一体を告白し、さらにイエスキリストがまことの神であり、まことの人間であると告白しているということをご理解いただければと思っています。

 

3、一人子であるキリスト

18節から学ぶことができる第二の点が、キリストはユニークな一人子であるという点です。

18節に、「一人子の神」という言葉があります。もとの言葉では「モノゲネース セオス」というギリシャ語でこれを直訳しますと、only begotten God、「ひとり子なる神」となります。

イエスキリストは神の御子であり、神の子です。

ところが、私たちもイエスキリストを信じると神の子になるという約束が12節にあります。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

両方とも神の子ですが、元の言葉では全然違うことばが使われています。12節の「神の子」とは、元の言葉では「テクナ セウー」(children of God)となっています。イエスキリストを信じた私たちは、children of Godと呼ばれます。イエスキリストは、一人子の神と呼ばれています。同じ「神の子」ですが、どう違うのでしょうか?そして神のひとり子キリストと神の子供たちである私たちとどういう関係にあるのでしょうか?

答えを言います。

一人子なるキリストは、神から生まれた一人子です。それはニケヤ信条の言葉を借りますと「造られずして生まれた」ユニークな存在です。

「この造られずして生まれ」という表現がキリスト理解の鍵になる言葉です。

それで、きょう正統的キリスト教を理解するために、もう一度二ケア信条を唱えてみます。「まことの神からのまことの神、造られたのでなくて生まれ、父と同質であって…」というところに注意しながら、二ケア信条の内容を理解しようとしてください。

「私たちは、ただひとりの神、すべてを支配される父、天と地と見えるものと見えないもののすべての造り主を信じます。

またただひとりの主イエス・キリストを信じます。主は神のみ子、御ひとり子であって、世々に先立って父から生まれ、光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでなくて生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。 主は人間である私たちのため、私たちの救いのために、天からくだり、聖霊によりおとめマリアによって受肉し、人となり、私たちのためにポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しめを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天にのぼられました。そして父の右に座しておられます。また生きている者と死んだものをさばくために、栄光のうちに再び来られます。そのみ国は終わることがありません。

また聖霊を信じます。聖霊は主、いのちの与え主であり、 父(と子)から出て、父と子と共に礼拝され、共に栄光を帰せられます。そして預言者によって語られました。

私たちは、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会を信じます。罪のゆるしのためのひとつのバプテスマを認めます。 死者の復活と、来るべき世のいのちを待ち望みます。アーメン。(日本キリスト教協議会共同訳)

「まことの神からのまことの神、造られたのでなくて生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。」 とあるように、イエスキリストは父なる神から生まれたもの御子ではあるが、被造物ではなく、

創造者である、ということがこの二ケア信条にはっきりと告白されています。カトリック、プロテスタントも含めて正統的キリスト教会は、みな共通にこれを信じ告白しています。

ヨハネ1章18節に「一人子なる神」と書かれていますから、イエスキリストは神そのものなのです。でも父なる神とは区別される御子キリストなる神なのであります。そしてこの父と御子イエスキリストは一体であり、創造者なる神なのです。

一人子はギリシャ語の「モノゲネース」という言葉です。「モノ」という言葉は、英語でも「モノレール」などに使われるはたった一つの、ユニークなという意味があります。御子イエスキリストはユニークな他にない創造者なる神の子なのです。

これに対して、私たちは神によって造られた被造物です。この子供たち(テクナ)という言葉には従う者、追随者という意味があります。

キリストと私たちの関係は、桃太郎とその弟子であるさるやきじとの関係にたとえられます。桃太郎とさるやキジは血がつながっているわけではないのですが、契約関係によって結ばれ、親分子分の関係となったのです。

桃太郎さんの歌をご存知ですか?

「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたきびだんご、一つ私にくださいな。」

さるやきじは、桃太郎さんのくださる恵みであるキビ団子が欲しいと思っておねだりをします。

(1)みなさんの中で犬年の方いらっしゃいますか?その方、お呼びがかかっています。

「桃太郎が鬼ヶ島へ向かっていると、一匹のイヌが桃太郎に言いました。
「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたきびだんご一つ私にくださいな。」桃太郎は、「私は今から鬼退治に行くところだ。ついて来るのならきびだんごをやろう。」と言いました。
イヌは、桃太郎の家来になってついて行くことにしたので、きびだんごを貰いました。」

(2)みなさんのなかにさる年の方いらっしゃいますか?その方も、お呼びがかかっています。

桃太郎がイヌを家来にして鬼ヶ島へ向かっていると、一匹のサルがやって来て桃太郎に言いました。
「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたきびだんご一つ私にくださいな。」すると桃太郎は、「私は今から鬼退治に行くところだ。ついて来るのならきびだんごをやろう。」と言いました。
サルは、桃太郎の家来になってついて行くことにしたので、きびだんごを貰いました。」

(3)みなさんのなかでとり年の方いますか?その方もお呼びがかかっています。別に犬年、さる年、とり年でなくても、だれでもキリストから恵みをいただいて家来になることができます。

「桃太郎がイヌとサルを家来にして鬼ヶ島へ向かっていると、一羽のキジが桃太郎に言いました。
「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたきびだんご一つ私にくださいな。」すると桃太郎は、「私は今から鬼退治に行くところだ。ついて来るのならきびだんごをやろう。」と言いました。
キジは、桃太郎の家来になってついて行くことにしたので、きびだんごを貰いました。」

桃太郎さんは、恵みをさしあげようとはいうのですが、それには条件があります。

どういう条件かご存知ですか?

1節が、

桃太郎(ももたろう)さん桃太郎さん、
お腰(こし)につけた黍団子(きびだんご)
一つわたしに下さいな。」

2節ご存知ですか?

「やりましょう、やりましょう、
これから鬼(おに)の征伐(せいばつ)に、
ついて行くならやりましょう。」

桃太郎さんの歌の3節までご存知ですか?

いきましょういきましょう、
あなたについて何処(どこ)までも、
家来(けらい)になっていきましょう。」

つまり、桃太郎さんとさるたちは親分子分の契約関係によって結ばれているのです。人間と動物という全然異質なものが契約関係によって結ばれています。

同じようにキリストと私たちも神と人間、創造者と被造物という異質な存在なのですが、それでもクリスチャンになったら神の子供と呼ばれるのは、「キリストについていく」という約束に基づいているのです。キリストについていくなら、救いの恵みをあげましょうという契約関係で結ばれた存在なのです。そして悪魔悪霊との戦いに参加し、平和な神の国を作ることに参加するという特権にクリスチャンは召されているのです。「あなたについいてどこまでも、家来になって行きましょう」とキリストに従って行く、これが神の子とされた者クリスチャンの生き方なのです。

 

4、父なる神のふところにおられるキリスト

18節から学べる第三の点が、子なる神キリストは、父なる神と特別な親しい交わりがある方であるという点です。

「ふところにおられる」とは、父なる神と子なるキリストとの特別に親しい関係をあらわします。

クリスチャンになると、クリスチャン同士の素晴らしい交わりを経験します。世界中どこにいっても、ただクリスチャンというだけで、今まで長い間つきあってきた友達のような不思議な親近感を感じて話し交わることができます。世界中の人が、キリストによってつながっているんだな、と感じます。

そのキリストにある交わりは、父なる神と子なる神キリストとの人格的な交わりからでているのです。父のふところにおられる父と子の親しい交わりが、交わりの源なのです。そこから神と私たちの交わりが派生し、さらにクリスチャン同志の交わりが生まれていきます。

 

5、啓示者なるキリスト

18節から学べる第四の点が、キリストが啓示者であるという点であります。キリストは神がどんな方であるかをあらわしてくださいました。父なる神は目には見えません。もし神を見たければキリストを見なさいと聖書は言います。「神がいるなら見せてみろ。そうしたら信じるから。」という人がいます。その人はキリストに目を留めて、キリストがどんな方なのか探求してみてください。キリストを見ることによって、神がどんな方なのかを知ることができるのです。

18節には、面白い言い方があります。「ひとりの神が神を解き明かされた」。人間の側からどんなに神がどんな方であるかを探求しても、限界があって、ぼやっとしていてよくわかりません。神様はどんな方なのか、キリストの啓示なしには聖書の啓示なしにはぼんやりとしていてよくわかりません。

神の方がイエスキリストという人間の形をとって降りてきて、示してくださって、神の方からの啓示があって、はじめて神がどんな方なのかよくわかるのです。

神は昔預言者を通じていろいろな時にいろいろな方法で語られましたが、終わりのときに御子イエスキリストによって神ご自身がどんな方なのか、神の御心が何なのか、どうしたら罪から救われるのかを啓示してくださったのです。

このキリストに目を留めて、神がどんな方であるのか知っていただきたいと願っています。

きょうは4つのことをお話しました。それをまとめてみます。

  • キリストはまことの神であって、まことの人間であるということ。なければならないこと。
  • イエスキリストは、ユニークなひとり子なる神であるということ。
  • 子なるキリストは父なる神と一体であり特別な交わりの中にあること。クリスチャンの交わりはその父と子の交わりから出てきたものであること。
  • キリストは神がどんな方であるかを解き明かされた啓示者であるということについてお話しました。

キリストは、神がどんな方なのかを教えてくださいました。キリストは本物の愛が何なのかを教えてくださいました。

イエスキリストは、私たちの罪を全部背負い私たちの罪の身代わりになって、十字架にかかってくださいました。そのことによって、神様がどんなに私たちを愛してくださっているかを示してくださいました。

イエスキリストを見れば、神様がどんな方なのかが理解できます。イエスキリストは、神様がどんな方なのかを解き明かした方なのです。私たちは、キリストを知ることによって神を知ることができるのです。キリストを知った時に、神を知ったと言っていいです。キリストに出会った時に、神と出会ったと思っていいです。キリストと交わった時に、神と交わることができたと言っていいです。

そしてキリストを信じたときに、罪が赦され、罪から救われて永遠の命を持つことができるのです。

イエスキリストを信じるなら、神様がわかり、神様の愛がわかり、救いを自分のものにすることができます。

このキリストに目を留め、キリストがどんな方なのか理解し、キリストを自分の主とし自分の罪からの救い主であると信じて、キリストに従って生きていただきたいと願っています。