1、自分たちの知らないメシヤ
この前は「神の子羊」という言葉の背景について説明しました。
第一の背景が、神の子羊とはイスラエルを滅びから救うために神が定めた過ぎ越しの子羊という背景です。
第二が、イザヤ書53章にある私たちの罪を背負い身代わりになって苦しみを受ける苦難の僕という背景です。
第三が、黙示文学に見られる勝利の象徴としての子羊という背景です。
私たちは、自分の弱さばかりをみつめていないで、自分の罪を取り除いてくださるキリストを見つめ、キリストを礼拝しましょう、という話をしました。
今回はその続きです。
多くの人がだれが救い主キリストなのか知らないで生きています。多くの人がイエスが本当はどういう方なのかを知らないで生きています。
ヨハネは、1章26節で自分に質問した人に対して、あなた方の知らない方が立っている、と言っています。
1:26 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
バプテスマのヨハネに質問してきた人は、無知なユダヤ人たちではありましたが、ヨハネはこの人々の無知を何か特別に罪深いとなじっているわけではありません。
ヨハネ自身も2回も繰り返して「私もこの方を知りませんでした。」と告白しているのです。
31節と33節を見てください。
1:31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
1:33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
親戚のナザレ村のイエスはバプテスマのヨハネのいとこにあたるわけであり、バプテスマのヨハネがイエスを全然知らなかったわけではないのです。ヨハネが自分も知らなかったと言っているのは、あの親戚のイエス君がまさかメシヤだとは私も知りませんでした。でも聖霊がイエスの上に下ったのを見てはじめて、この方が偉大な方であり、神の子であり、聖霊を私たちに下さるかたであり、世の罪を取り除く方であることを知った、と証言しているのです。
ヨハネは、神様に教えられてはじめてわかったことである、見てはじめてわかったことであると告白しているのです。
1:31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
1:33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
1:34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
実は、当時のユダヤでは隠れたメシヤ、人々には知られないメシヤが現れるという思想がありました。
ヨハネ7:27では、メシヤはどこからきたのか知っているものはいないはずだと人々が言いました。
7:27 けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」
「ああ、イエスかい。知っているよ。ヨセフ工務店のただの大工の息子だろ。でも本当のメシヤならどこから来たのか知っているものはいないはずだ。」と人々は反論して、イエスがメシヤのはずがない、救い主のはずがないと言ったのです。
2世紀の中ごろユダヤ人のトリフォン(Trifune)という人とキリスト教会の教父(Church Fathers)の一人であるユスチヌス(Justin)との間で対話が行われたことがありました。そのことがユスチヌスが書いた「トリフォンとの対話」という本の中に書かれています。
ユダヤ人であるトリフォンはこうユスチヌスに反論してイエスがキリストではないと言っています。
「キリストはもし本当に生まれてどこかにいるとしても、エリヤが彼に油を注いで1万人に公表するまでは、誰にも知られず、自分自身も知らず、何の力もない。」つまりユダヤ人トリフォンは、まだエリヤが天からおりて来ていないので、キリストはまだ現れていないはずだ、と言ったのです。(「トリフォンとの対話」8:4, 116:1)
バプテスマのヨハネの主張は、この歴史的背景で読むと非常に意味が深くなってまいります。
ヨハネは、自分はあなたがたが期待しているようなメシヤではありません。あなたがたが期待しているような天から再来するエリヤでもありません。私の後ろからこられる方、この方こそ隠れたメシヤであって、もうあなた方の中に立っておられるのです。ヨハネは、自分が水でバプテスマを授けたのは、この隠れた神をイスラエルに公に明らかにさせるあのエリヤ的な役目を果たすためだったのだ、と言いたかったのであります。メシヤはあなたがたがまだ知らない方なのです、と言いたかったのであります。
2、ご自分を隠す神、ご自分を隠すメシヤ
けれども考えていただきたいのですが、何故キリストは天の軍勢を従えて輝かしい栄光を帯びていらっしゃらなかったのでしょうか?何故ローマ帝国の中心のローマで活動せずに、イスラエルというローマの属領に住まわれたのでしょうか?何故エルサレムの金持ちの家に育たないで、何故ヘロデ王の御曹司として育たないで、何故ナザレの片いなかの平凡な大工の息子として育ったのでしょうか?ユダヤ人たちは、イエス様が自分は天から下ってきたパンであるとおっしゃったときにぶつぶつつぶやきました。ヨハネ6章42節にこう書いてあります。
6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」
何故イエス様は、「あの人は、ただの大工の息子さんじゃありませんか。」と言われるまで神であることを隠されたのでしょうか?
何故神はご自分を隠し、何故メシヤはご自分を隠されたのでしょうか?何故メシヤはメシヤとはなかなかわからない方として現れたのでしょうか?
イザヤ書45章15節では神はご自分を隠すお方だと言っておられます。
45:15 イスラエルの神、救い主よ。
まことに、あなたはご自身を隠す神。
ラテン語で「デウス、アブス、コンディウス」といい、
「ご自分を隠しておられる神」、「隠れた神」という用語がルター派の神学の大切な神学用語になっています。偶像を造る人々は、自分たちの神々のイメージに合うように神の像が刻まれますので、そういう神々は現れていて目に見えます。人間が作る神々は見える神々であり、外に神として現されています。家やお寺の仏壇には見える仏の像があります。石で作ったお地蔵様も目に見えます。またお金でも科学でも国家でも人間はこれを神格化したりします。こういう神々は隠されていません。
ところが天地宇宙すべてを創造された誠の神は背後に隠れておいでになります。
イザヤ書49章1-3節では、メシヤがしもべという形で隠れた形でご自分を啓示なさることが書かれています。
49:1 島々よ。私に聞け。
遠い国々の民よ。耳を傾けよ。
【主】は、生まれる前から私を召し、
母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。
49:2 主は私の口を鋭い剣のようにし、
御手の陰に私を隠し、
私をとぎすました矢として、
矢筒の中に私を隠した。
49:3 そして、私に仰せられた。
「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。
わたしはあなたのうちに、
わたしの栄光を現す。」
イザや書49章によれば、このしもべは、神の言葉を鋭い剣のように語るものであり、研ぎとぎすました矢のように言葉を放つものであります。ところがちょうど剣がさやのなかに隠れているように、矢が矢筒のなかにかくれているように、主がこのしもべを隠したというのであります。神はこの隠れた僕において神の栄光を現すと約束しているのであります。
この僕メシヤは、神様のさやの中に矢筒の中に隠れたメシヤであったのです。
神はご自分を隠し、ご自分の栄光を僕メシヤを通して現わされました。そのメシヤも僕の形をとり、その鋭い御言葉の武器を隠されました。
ヨハネ1章18節で、
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
と書かれている通り、本物の神様は目には見えません。
神はあまりに偉大であるので、直接語ることをしません。
神様は電話口にはでられません。神は絶対他者(Absolute Other Person)であり、神様はだれかを通してでなければ語られません。神は天使を通して、預言者を通して、聖書を通して、自然を通して、良心の声を通して語られます。
もし私たちが直接神を見たら、私たちは死んでしまうと言われています。光としての神が余りにも強すぎ、私たちがあまりにも罪深いからです。
神の強烈な光が、人間の目になじむほどまで制限され、小さくなり、イエスキリストという方において神を見ることができます。
けれども神が人間の形をとり、地上でおしのびで歩かれると、神の栄光が隠れているため、普通の人にはただの人に思えてくるわけです。バプテスマのヨハネでさえもイエスが神の子であることをしりませんでした。神から啓示を受けるまでは、まさか自分のいとこであるイエス君が神の子メシヤであるとは夢にも思わなかったのです。
マルコ8章27節―30節で、ペテロはイエスが神の子キリストであると告白しました。
8:27 それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」
8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
何故人となったイエス様もご自分を隠そうとされたのでしょうか?
3、メシヤは偉大な神であり、謙遜な人となられた方だから
第一の理由は、メシヤ・キリストは、たとえその姿がいちじるしく制限されているとはいえ、等しく偉大な神であるからです。そして謙遜な人となられた方だからです。
神だからこそ、ご自分を隠そうとされたのです。「能ある鷹は爪を隠す」ということわざがあります。
本当に偉大な方は、そう簡単に自分をあらわさないのです。
昔天皇陛下や江戸幕府の将軍は、すだれ(スクリーン)の奥にいてなかなか簡単に顔が見られない奥ゆかしい方でした。偉い人はすだれの奥にいますから、どんな殿様でも天皇でも高貴に見えたのでありました。
今の天皇でさえ、ご自分の誕生日に会いたい人すべての前に顔を現わすわけではありません。会えない人は記帳に名前を書くだけということになってしまいます。
バプテスマのヨハネの死後、バプテスマのヨハネ教団という異端がおこりました。ヨハネの福音書1章は、この教団を意識して論駁のためも書かれています。このバプテスマのヨハネ教団は、先生のヨハネが先に登場してバプテスマ運動をしたのだから、先にバプテスマ運動をしたヨハネの方がイエスより先輩であり、先駆者である。だから後輩のイエスより優れていて偉大なのだと主張した異端でありました。バプテスマのヨハネ自体は、自分を低い位置をはっきりわきまえた人でありました。ところがその弟子たちが異端的な教えに走っていったのでありました。
ヨハネ3章24節―26節には、もうその弟子達が反キリスト的になっている萌芽を見ることができます。
ヨハネ3章24-26節をみてください。
3:25 それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。
3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
ヨハネは半年イエスより年上でしたし、公に登場するのもイエスより先でした。
けれどもヨハネは、主人の靴ひもをとくという奴隷しない仕事をする価値もイエスとくらべるとない、と言っているのです。
ヨハネ1:30でヨハネは言いました。
1::30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。
ヨハネは、この方の方が自分よりもはるかに偉大な方であると証言しました。その理由はイエス様の方がヨハネよりも先に存在したからだ、とヨハネは証言しています。バプテスマのヨハネの方がイエス様より先に生まれ、バプテスマのヨハネの方がイエス様より先にバプテスマ運動をはじめたのです。ですからバプテスマヨハネの方が先駆者であるとヨハネの弟子の一部は考えたようでした。しかしバプテスマのヨハネ自身はその反対だと証言したのです。その理由が、イエス様の方が先に存在したからだとヨハネは証言したのです。御子イエスキリストはマリヤから生まれる前から、先祖アブラハムが生まれる前から存在していたのです。この世界が存在する前から存在していたのです。
ヨハネ17章4節に父なる神に祈っていた大祭司イエス様がこんな祈りをしました。
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
イエスキリストは、この世界が存在する前に存在していたのです。
イエスはご自分を隠されました。それは誰よりも偉大だからです。イエスは神様であられたにも関わらず人となられ、ご自分が神であることを隠されました。それは彼が人として謙遜であられたからであると同時に、神として偉大でるからです。
4、間違ったメシヤ扱いを受けることを避けたかったから
イエス様がメシヤであることを公にしなかった第二の理由は、間違ったメシヤ扱いを受けることを避けたかったからでした。その当時には、自分達の都合のいい間違ったメシヤ像がありました。イエス様にとっては、自分達の都合のいいメシヤとして引っ張り出されて利用されることを避ける必要がありました。その当時の勝手なメシヤのイメージにあわせて間違ったメシヤに祭り上げられて欲しくなかったのです。
ヨハネ伝6章15節で人々がイエス様を王とするために無理やり連れていこうとしたことがありました。
6:15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
民衆は、ローマ帝国の支配下からイスラエルを解放し独立国家を作ってもらうための王なるメシヤを期待していました。ところがメシヤが現れた本当の目的は、異邦人も含めてイエスキリストを信じる全世界のすべての人が贖われるためでありました。
5、信仰の目でイエス様を信じて欲しかったから
イエス様がご自身を隠された第一の理由が、イエス様が偉大な神であり、同時に謙遜な人間であられたからです。第二の理由は、間違ったメシヤに祭り上げられないためです。もうひとつ理由があります。
もうひとつ理由があります。
第三の理由は、信仰の目で見てはじめてキリストがだれであるかをわかるようになるためです。イエス様は、ご自分がだれであるか、信仰がなくても簡単にわかるような現れ方はなさらなかったのです。霊的なまなこを持ってイエス様を仰ぎみなければイエス様の姿がわからないような形でご自分を現されたのです。言葉であるキリストは、幕屋をはって制約されたかたち、人間のかたちをとりまことの人間となられました。それは「私たちの間」(ヨハネ1章14節)にしか住まわなかったのです。
昔預言者エリヤがホレブの山シナイ山で主の前に立ちました。大風がふいてきて岩を砕いたけれども風の中に主はおられませんでした。風のあとに地震が起こったけれども地震の中にも主はおられませんでした。地震のあとに火が起こったけれども、火の中にも主はおられませんでした。火のあとに静かな細い声が聞こえました。エリヤはこれを聞くとすぐに外套で顔をおおいました。顔をおおうとかすかな細い声(still small voice)が聞こえました。
心が雑然としていると神様がわかりません。雑事に追われていると神様がわかりません。神様はかすかな細い声をもって語りかけてくださいます。だからよい耳をもたなければなりません。神の言葉を聞き分ける心がなければイエス様の本当の姿がわかりません。静まって御声をきかなければ、いつまでたってもイエス様はわかりません。
この世の創造者で支配者であるキリストは大工の息子イエスというおしのびの形で人間の世界に入り込んでくださいました。先週水戸黄門が隠居した商人のかっこうで旅をした話をしました。
水戸黄門が最後の場面でご自分を現し、お供の人が江戸幕府の印籠(いんろう)を見せながら、「控えよ、控えよ。これにおわしますは、先の副将軍水戸光圀ご老公様なるぞよ。皆の者、頭が高い。」すると水戸のご老公様が現れたとわかり、「ハハー。」とばかり土下座するのであります。
イエス様が復活後にご自分が復活した神であることを現された時に、弟子達はイエス様をハハーと礼拝したとマタイ伝28章17節に 書かれています。ユダヤでは人間を礼拝することは固く禁じられていました。ところがナザレのイエスが隠れた御子なる神でありすべての権威を持っている創造者であることがわかり、イエス様を礼拝するようになったのです。そしてイエス様は宣教の大命令をなさいました。「行ってあらゆる国の人を弟子としなさい。」
バプテスマのヨハネは啓示を受け入れた時に、霊のまなこでイエスがメシヤキリストであることを知りました。
そしてイエスが神の子、世の罪を取り除く神の子羊であると証しました。
弟子達もイエスキリストの復活を信じた時に、イエス様が隠れた神であることを知り、イエス様を礼拝し、イエス様が神の御子であることを証しました。
同じように、私たちも御言葉を受け入れ信仰をもって神の言葉を受け入れ、イエス様がどなたかを知り、そしてイエス様が神の御子であることを証するように召されているのです。イエス様の本当の姿は信仰のまなこをもってイエス様をみなければわからないことなのです。イエス様は隠された形で神がどういう方か啓示なさったので、信仰のまなこをもってみなければいつまでたっても「あなたがたの知らない方」で終わってしまうのです。
神様は好き好んでかくれんぼや鬼ごっこをしているわけではないのです。むしろ神様は、人々に向かって手を伸べて招き、「私はここにいる」とご自分を示してくださっているのです。でも多くの人々は神様を呼び求めることをしません。
あるいは自分の好きなイメージの宗教を作ります。そういう人々の目から見て自分の思い通りのところに神はいないのです。誠の神は全然期待はずれのところで、「私はここにいる。私が道だよ。私が真理だよ。」とおっしゃっているのです。信仰の目でイエス様を見なければ誠の神は人の目から隠れているのです。
6、目にみえない神様
神様は、目にみえません。でも信仰のまなこでみると神様が見えてきます。神のことばである聖書の中に神はご自分をあらわされました。神は終わりのときにイエスキリストによってご自分をあらわされました。それを特別啓示(special revelation)といいます。イエス様は、人間という形で隠れていらっしゃいます。ですから聖書を理解し、信仰の目でイエス様をみなければ、イエスキリストの本当の姿を理解することができません。神様は、特別啓示だけでなく、一般啓示(general revelation)の中にもご自分を現されています。神は歴史の背後にも、大自然の背後にも、物理法則の背後にもどこにでも隠れていらっしゃいます。
神様は歴史の中に隠れていらっしゃいます。歴史をみると、神の配剤、神の摂理があることを直感します。歴史をみると神が世界の審判者であることを直感できます。
神様は美しい大自然の中にも神が隠れていらっしゃいます。自然を見て美しいと思います。自然の中に美があります。この美はどこから来たのでしょうか?人間が美しい自然を作ったわけではありません。自然の中に美があるということは、神が偉大なアーティストであるということではないでしょうか?美しい自然を作った神は偉大な芸術家と言えるのではないでしょうか?
私は昔一眼レフカメラを買ったころ、カメラを通して芸術家としての神がわかってきました。スカイライトや偏向フィルターなどのフィルターを使って赤外線や紫外線を除かなければいい写真がとれないのです。
そして蛍光灯や電球ではなかなかいい写真がとれないのです。蛍光灯は青白くなり、電球は黄色すぎてきれいに写りません。そこでストロボを使います。ストロボは、なるべく太陽光に近いように設計されています。太陽の光が一番きれいに写るのです。神様が作った光が一番きれいだな、とわかります。
自然の中にアーティストの神様は隠れていらっしゃいます。芸術作品を見てその背後に隠れている神を知ることができます。
また神は物理法則の中にも隠れていらっしゃいます。
大自然は物理法則があり、それは数学で満ちています。ところが数学は人格をもったもののなかからしかでてきません。私たちは100年前200年前の日食月食を計算できます。ところが物理法則は人間が出現する前からありました。だれが物理法則を定めたのでしょうか?そうしてこの世界には秩序(order)があるのでしょうか?それは秩序を定めた方がいるからではないでしょうか?
イエス様は復活したときに、弟子達にわからないようにおしのびで隠れて行動なさいました。マリヤは最初復活したイエスが園の管理人だと思いました。エマオの途上にもクレオパなど二人の弟子に会われました。その時にもイエス様だとすぐ気がつかなかったのです。人は目に見える外面しか見ないからです。それが聖書の解き明かしを聞き、信仰のまなこで見てはじめて目が開かれイエス様だとわかったのです。
復活した時にイエスは漁をしていたペテロにあらわれなさいました。その時にも最初ペテロはイエス様だとはわからなかったのです。この様子がヨハネ21章6節と7節に書かれています。
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
以前イエス様が権威をもって言われた言葉と同じだったので、「主です!」と気がついたのです。
多くの人がイエスが神であられる方だとは知りません。
でも霊的なまなこをもってイエス様をみると、この方が「主です」とわかるのです。
みなさん一人一人が霊的なまなこをもってイエス様を見、イエス様がだれであるか悟っていただきたいと願っています。「主です!」と気がつき、イエスキリストが自分の主であり救い主であると気がつき、信仰の目を持って、隠れた神が大工の息子イエス様においてご自分を現していらっしゃることを悟っていただきたいと願っています。