きょうはイエス様が水をワインに変えたお話ですので、イントロダクションとしてお酒の話をしようと思います。
酒は古代から今日にいたるまで人間につきものでありまして、ワインの世界最古の記録は実に聖書の中のぶどう作りの農夫ノアの記事に見られるのであります。
酒の話を教会でする場合には、デリケートな問題ですので慎重でなければなりません。
伝道集会の時に福音の本質的な問題でない酒を強調してこれをけがらわしいもののように扱うことによって、男の人がキリスト教は酒タバコを呑まない宗教だと思い「自分にはとてもついていけない」と信仰に入ることを断念する例が少なくありません。
逆にアルコール中毒から抜け出したいと願っている人にとって、あるいは酒癖が悪くてそこから抜け出したいと思って後悔ばかりしている人にとって、クリスチャンが酒を飲むことがつまづきになることもあります。
酒に関しては教派によって態度に相違がみられます。カトリック、聖公会、ルター派の多くやクリスチャンリフォームドなどのオランダ改革派は禁酒をしていません。ピューリタン系の清め派や保守バプテストや日本の福音派の多くが禁酒を勧める傾向にあります。
ある人はきょうのヨハネ福音書2章やIテモテ5章23節のところにある
5:23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。
というパウロの言葉を引用して、だから酒を飲んでもかまわないだろうと結論します。
イエス様が水をぶどう酒に変えた量はあわせて80リットルから120リットル入りの水がめで全部で6個、計480リットルから720リットルという膨大な量です。
0.75リットルのワインのびんで換算しますと640本から960本であります。
ある禁酒派の牧師は、イエス様があまりにも多量の水をワインに変えたことで解釈に苦しんだあげくこう言いました。イエス様が水をぶどう酒に変えたのは、きっとファンタのようなおいしいぶどうジュースだったのだろう、と。彼の根拠によると「新しいぶどう酒」と訳されているヘブライ語のティロー酒は飲んでもいいけれども、普通のぶどう酒であるヤインはいけないというのであります。
ところが私が全部コンコルダンスで精密にこの言葉の使い方を調べてみますと、酒を飲む態度が罪と結びついた例をよくみる反面、ティローシュ(新しいぶどう酒)だけでなく彼がいけない酒だと考えたヤイン(ぶどう酒)も聖書の中では神の祝福として表現されているところもあります。
例を挙げてみます。
イザヤ書5章11-12節。
5:11 ああ。朝早くから強い酒を追い求め、
夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。
5:12 彼らの酒宴には、立琴と十弦の琴、
タンバリンと笛とぶどう酒がある。
彼らは、【主】のみわざを見向きもせず、
御手のなされたことを見もしない。
そうかと思うと詩篇104篇14-15節にこういう祝福の言葉がヤインというぶどう酒の例として表現されています。
104:14 主は家畜のために草を、
また、人に役立つ植物を生えさせられます。
人が地から食物を得るために。
104:15 また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。
油によるよりも顔をつややかにするために。
また、人の心をささえる食物をも。
初代教会の聖餐式はぶどう酒であって、できたての雑菌のいっぱい入ったぶどうジュースではなかったことは確実です。Iコリントを見ますとその聖餐の会食で酔っ払った人がでてきてパウロからお叱りを買ったぐらい、当時のクリスチャンは過ぎ越しの祭りの伝統に従って食事の中でぶどう酒を使っていました。
ですからぶどう液はいいけれども、ぶどう酒は飲んではいけない、という倫理はピューリタ二ズムの禁欲的倫理なのであって、そういう倫理をもって無理やりヨハネ福音書を解釈するのは正しい解釈方法ではありません。私たちの思考を聖書の中に読み込んでしまうと(to read our thought into the Bible)正しい聖書解釈からはずれてしまいます。
結論的に申しますと、聖書は酩酊を非難していますし、飲酒の害を厳しく警告しています。その例として、箴言20:1、23:29-32、31:4、Iサムエル1:14、25:36、アモス6:6、イザヤ5:11、28:1、エペソ5:18などがあげられます。ですから罪と結びつくような飲酒の習慣を持っている方はきっぱりそういう習慣をおやめになることをお勧めします。
しかし多面、宴会でアルコールが出ることは非難されなかっただけでなく、当然とみなされました(創世記43:34、ハガイ1:6、士師9:13、箴言31:6)。
禁酒をしていたのはサムソンやバプテスマのヨハネなどのナジル人などの例外はありましたが、それ以外の人は禁止されていませんでした。
酒を飲む者がよく罪と結びつき、不道徳をする危険があるのですが、酒を飲む者が即道徳的に低い者であるかのごとく裁くことは聖書からは全く正当化できません。
酒を好き勝手に飲んでもいいとか、あるいは絶対に飲んではいけないとか、そういうことは聖書のどこにも書いてはいないのであって、そういう考え方はまだ律法的戒律的な聖書の読み方をしているのであります。
ヨハネ2章から酒をがぶ飲みしていいとか、他の箇所から絶対飲んではいけないとか、そういうようなことを聖書は言おうとしているのではないのであります。「してもいい」とか「してはいけない」という緊張関係から自由になり、しかも乱行に走らないというのがパウロの説いた律法主義からの自由であります。
してもいいかとかしてはいけないか、という律法主義的な思考で、お酒に関する裁き合いの議論をグローリーチャーチ高松の中にに持ち込んで欲しくない、と思っております。
お酒を飲む飲まない人を飲まないことで表面的な批判をした例を聖書からあげてみましょう。
ルカ伝7章33節34節を見ますと、バプテスマのヨハネはお酒を飲まないと言って非難を受けています。
ルカ7章33-34節。
7:33 というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』とあなたがたは言うし、
今度は同じコンテキストの中で、イエス様が酒税人たちと飲むと、大酒のみの仲間だ、と非難されていました。
7:34 人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。
7:35 だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」
当時、お酒を飲まない気持ち悪いと言って裁いた人もいたし、お酒を飲むと言って裁いて悪く言った人もいたのです。
バプテスマのヨハネが酒を飲まなかったのにはナジル人の誓いをしたという理由があるのです。イエス様がお酒を飲んだのには、人と交わるという理由があり、特にみなからきらわれている人と交わり、神の愛を示すという理由があったのです。
「お前は付き合いが悪い。酒ものめないのか。気持ち悪い。俺の杯を取れないのか。」というたぐいの非難も避けて欲しいと思っています。逆に「あの人クリスチャンのくせにお酒を飲んでいる」といったたぐいの表面的な裁きもして欲しくないと思っています。
私は禁酒をしてはいませんが、だからといって飲んでもいません。私は飲む習慣はありませんが、だからと言って飲みたいのに我慢しているわけではないのです。
戒律にしばられて飲んでいないわけではありません。
ただ人をつまずかせないように、人を酒におぼらせないように、人のために気を配って飲んでいないだけであって、一人では飲まないけれども、リフォームドのクリスチャンや友達と飲むことはあります。
各人が信仰的良心に従う行動をとり、神の栄光になると思えば飲めばいいし、ならないと思えば飲まなければいいのです。
良心にとがめを感じながら飲むことはよくありません。
この教会には、禁酒している方もいらっしゃいますが、私はそのことを尊敬しますし、禁酒している方はその習慣はよい習慣ですので、それをやめなければならない理由はありません。
バプテスマのヨハネのような禁欲的ライフスタイルを捨てなければならない理由はありません。
しかし、イエス様のライフスタイルは全く違っていました。イエス様は酒を飲んでいた一般の人々とつきあいました。そしてそういう人たちとの語らいを楽しまれた方であり、そういう交わりに力添えをなさるかたでもありました。水をワインに変えることは、楽しみと結婚の祝福をサポートすることだったのです。
イエス様は、大らかに結婚式の時に酒を楽しむことを助けてくださる方だったのです。
酒に関するイントロダクションはこれくらいにして、本題の方に移ります。
きょうの聖書の箇所は、ぶどう酒を飲んでもいいということを正当化するために書かれたテキストではありません。ヨハネの福音書2章はお酒を飲むんでいいんだと主張するために書かれたものではありません。ヨハネ2章のメッセージはお酒を飲んでいいかどうかという議論と全く関係がありません。では何のためにイエス様はここで水をぶどう酒に変える奇跡をなされたのでしょうか?
きょうの箇所から学べることを箇条書きにまとめておきたいと思っています。
第一に、イエス様は、結婚の喜びを支えてくださる方です。イエス様は奇跡を起してまで、新郎がほめたたえられる様なことを影で小細工までして、結婚式を盛り立ててくださる方であります。
当時ワインによるもてなしは神聖なつとめであり、ワインが切れることは屈辱でありました。イエス様はこの屈辱から新郎の顔を救ってくださったのです。
イエス様は、最初の奇跡によって結婚を祝福なさいました。
2章7節でイエス様は、水がめをふちまでいっぱいにするように命じなさいました。ワインの膨大な量は、祝福が満ちていること、主の恵みの豊かさをあらわしています。結婚は主があわせたものでありますが、主はただ二人を合わせるだけでなく、影でいろいろ気を配り、祝福されるように整えてくださっているのです。
第二に、イエス様の奇跡によって主はご自分の栄光をあらわしました。そしてイエス様の奇跡によって弟子達の信仰が深まりました。奇跡は、イエス様の栄光があらわれ、それによって信仰が呼び起こされることが目的なのです。もし主の栄光をあらわすということがなかったら、どういう意味があったことになるでしょうか?イエス様は、ほろよい加減のいい気持ちの人間に、特上の酒を出してもっといい気分にさせた、ということで終わってしまいます。
奇跡はあくまで主の栄光をあらわすためなのです。弟子たちは、奇跡によってナザレのイエスが自然法則を自由にコントロールされる方であることを知ったのです。
ぶどうの木は、水と養分と日光が重なって水をぶどうにします。さらにこれをたるの中で発酵させてぶどう酒となります。イエス様は、こういうことを短時間になさったのかもしれません。
イエス様が全能者であって、自然法則を支配なさる方である、そういうことを感じて私たちに信仰が呼び起こされるならば、奇跡には意味があります。
前に松原湖のバイブルキャンプ場でキャンプをしたことがありました。私たちも8月にミシガンバイブルキャンプをします。そのキャンプの中で、キャンプファイヤーをします。星屑が見えて自然の中で賛美をしたり、神様のことを思い巡らしたり、自分の生活をふりかえったりするとても大切な時です。
松原湖のバイブルキャンプでもキャンプファイヤーはお互いに証をし合うとても大切な時でした。ところがあいにくその日はどしゃ降りの雨で雷があちこちに鳴っていました。スタッフやカウンセラーはみなキャンプファイヤーはとても大切な時だから、雨がやむように祈っていました。キャンプファイヤーの1時間前に、皆が集まって夕食を食べている時に、雨はいよいよ大降りになってきました。「この状態じゃあキャンプフィやーはできないな。」という声が起こってきました。私もカウンセラーの一人として、心配になってきました。ところが、ワーカーは外に出てキャンプファイヤーの準備を始めました。そして通達がきたのです。「予定通りキャンプファイヤーの準備をしてください。そして雨がやむようにみないっしょうけんめい祈ってください。いい証をする人が起されるように、キャンプ場で救われたたくさんの人がそのことを証できるように祈ってください。」
30分前に雨がやみそうになってきたので、みな傘をさしながら外に出ました。キャンプファイヤーが始まったころ、雨はぴたりとやみ、一面星が見えてきました。星がいっぱい見えるのです。さっき大雨だったのがうそみたいでした。
でも稲光だけはひどく、雷が落ちはしないかと心配したほどでした。
私は目を上げて天を見ました。すると不思議なことがおこっていたのです。真上だけがたくさん星が見える雲がないきれいな空でした。月や星まで見えるのです。ところがまわりの山々は真っ黒い雲でおおわれており、どしゃ降りの雨が降っているのが見えるのです。
「不思議なことがおこるものだな、キャンプファイヤーの地域だけたくさん星が見える。きっと祈りが聞かれたんだ。」そう思っていました。
キャンプファイヤーでキャンプ中にイエス様を信じた人の証がありました。信仰が回復した人の証もありました。ところがキャンプファイヤーが終わって、キャンパーたちがキャビンに帰りかけた時に、急にどしゃぶりの雨が降ってきました。みなキャーキャーいいながら走ってキャビンに帰りました。
キャンビンの中で私はいいました。「見たでしょ。神様が雨をストップさせたんだよ。」ある人は「偶然だよ。」と言いました。でもある人は「神様って、自然を支配なさっているんだね。その神様がお祈りを聞いてくださったんだ。」と告白して神様に対する信仰が与えられました。
私は、神様のなさることは素晴らしいと心から神を賛美することができました。これは自然法則を破る事件ではありませんので、奇跡とはいえないかもしれません。でもタイミングよく祈りが聞かれたということで、不思議な出来事が起こったということができるかもしれません。
イエス様が水をぶどう酒に変えた事件は、もっと不思議な事件でした。ですから弟子たちに大きな影響を与え、どんなに主の栄光があらわされたか、想像がつくのではないかと思います。
第三に、このイエス様の最初の奇跡は、今日の説教のタイトルにありますように、新しい時代の到来をあらわすシンボルでありました。
2章6節にわざわざ「ユダヤ人の清めのしきたり」と断っています。
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
水というのは、この場合にはユダヤ人の清めの儀式のために使う水です。この水がめの水は手足を清めるとめに使うユダヤ教の宗教的な清めのための水です。
けれどもマルコ伝7章に述べられているように、聖書のいう汚れは人間の内側にある罪によるものであって、水で外側の手足を洗ったぐらいでは清められるものではないのです。
人間の罪はイエス様の流される十字架の血によって贖わなければきよめられないのです。聖餐式のぶどう酒に象徴される十字架の血によるあがないがなければ人間の罪からの清めの問題は解決できないことなのです。
ユダヤ教の水による清めの儀式から、十字架の血による清めに移り変わることが隠れた意味として含まれているのです。
ヨハネによる福音書の2章から4章までのところはしるしの章といわれているところです。いろいろなストーリーがありますが、これはみな新しい時代が始まったことを言おうとしているのであります。
古いものが新しいものにとって代わる、不完全なものが完全なものにとって代わる、というテーマで貫かれています。
- 2章後半の宮清めのところでは、神殿を清めて、手で作った古い神殿は必要なくなり、動物のいけにえも必要がなくなり、イエスキリストという新しい神殿にとって代わられ時代がくるという新しい時代がくることのメッセージがあります。
- 3章前半のニコデモのところでは、古い人が水と霊によって新しい人になるというメッセージがあります。
- 3章後半の清めに関する議論のところでは、バプテスマのヨハネが衰え、イエスが栄える、というメッセージがあります。
- 4章のサマリヤの女のところでは、ゲリジム山での神殿礼拝でもなくエルサレムの山での神殿でもなく、新しい聖霊による礼拝をする時代がくるというメッセージがあります。
きょうの所2章前半のところでも、ユダヤ教の儀式で使う水から、十字架で流されるぶどう酒が必要な時代に変わってきている、というメッセージが隠されているのであります。
清めの水を使ってもどんなに外側を清めても心が汚れている限り罪の問題の解決にならないのです。
イエス様が来ることは、水をぶどう酒に変えるような新しい変化が来ることなのです。
4節で「私の時はまだきていません。」とおっしゃいました。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
表面的な意味ですと、「お母さんは関係ないから、ほっといてください。私のするべき時が来たら、何とかしてあげましょう。」そういう意味です。
「私のすべき時はまだきていません。自分でする時がきたら、何とかするから、お母さんはあっちにいっててください。」そういう意味なのです。
母親は、息子に近くのどこかに行って急いでぶどう酒を買うか借りるかして欲しかったのかもしれません。
「お母さんとは関係ないから、お母さんは引っ込んでいてください。自分のするべき時がきたら、ちゃんとするから、私にまかせてください。」そういう意味で言ったのだろうと思われます。だから母親は、息子の仕事を手伝わせるように、手伝いの人を呼んだのです。
ところがその背後に隠れた象徴的な意味があります。
「私の時」とは、十字架の時です。
福音書では「私の時」とは十字架の時以外に使われていません。
例を挙げてみましょう。
ヨハネ7章6節―8節を見てください。
7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。
7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。
7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」
7章30節。
7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。
8章20節。
8:20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
これを見ておわかりのように、イエス様が言われた「私の時」とは十字架の時なのです。
イエス様は、マリヤの助けを借りることなくただ一人で十字架にかかり、ただ一人で人類の贖いのために血を流してくださいました。贖いの業は全くイエス様一人で行った主権的な業でありました。
それにしても、息子が母親に向かって「女の方、あなたは私と何の関係があるのでしょうか」(4節)というのは変な言い方ではないでしょうか。何故お母さんと言わずに「女の方」と言ったのでしょうか?イエス様は、十字架にかかられた時に、母親にむかっておっしゃいました。ヨハネ19:26-27節。
9:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
「女の方」は教会を代表します。十字架の時以来、イエスの母マリヤは教会の母、神の母となりました。そのような関わりがはじまる「キリストの時」「十字架の時」はまだ来ていない、という隠れた意味があったのです。
第四に、結婚式の喜びは、新しい契約の象徴なのです。
この結婚式では、夫と妻がだれであったかは書かれていません。書かれているのはよいぶどう酒で楽しんでいる人の言葉です。
結婚式では祝福があり、喜びがあり、善意があり、楽しみがあり、語らいがあり、フェローシップがあります。歌があり(普通は雅歌を歌います)、ダンスがあり(おそらく輪になって)、よく取り揃えられた食事とぶどう酒があります。イザヤはメシヤが到来した時の喜びを結婚をもって象徴しています。イザヤ61章10節を見てください。
61:10 わたしは【主】によって大いに楽しみ、
わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
主がわたしに、救いの衣を着せ、
正義の外套をまとわせ、
花婿のように栄冠をかぶらせ、
花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
メシヤの時代、新しい時代が喜びにあふれていることに注目していただきたい。喜び、祝福、愛、楽しみ、こういう祝福の雰囲気が新しいメシヤの到来の喜びを表現するにふさわしいのです。
私は、イエスキリストを信じた時、どうしてこんなに喜びがあり、楽しいのだろう、と思いました。こんな楽しい充実した時が過ごせる。素晴らしいな、と思いました。あまり楽しいので、あちこちの高校生の集会に顔を出すようになってしまいました。
前に友達の結婚式に行ったことがありました。これも楽しいひとときでした。両方に共通することが、祝福という言葉です。私たちは神の祝福を受けているから楽しむことができるのです。
ぶどう酒が豊かにあることは、神の祝福の象徴なのです。
イザヤ55章1節で、神は恵みを代価なしで与えると言っています。神の気前のよい恵みをぶどう酒でたとえています。
55:1 ああ。渇いている者はみな、
水を求めて出て来い。金のない者も。
さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買い、
代価を払わないで、ぶどう酒(ヤイン)と乳を買え。
またぶどう酒の宴会を天国での喜びを現すたとえとして表現されています。
イザヤ25章6-8節。
25:6 万軍の【主】はこの山の上で万民のために、
あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、
髄の多いあぶらみと
よくこされたぶどう酒の宴会を催される。
25:7 この山の上で、
万民の上をおおっている顔おおいと、
万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、
25:8 永久に死を滅ぼされる。
神である主はすべての顔から涙をぬぐい、
ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。
【主】が語られたのだ。
ぶどう酒による宴会は、新しい契約の喜びと豊かさの象徴なのです。そして天国の祝福の象徴でもあるのです。
アメリカ大陸で結婚式に出ますと、少しアルコールが入ってリラックスします。レセプションに招かれた人はお皿やグラスをたたいて新郎新婦にキスを要求します。そういうインジョイする雰囲気は福音の喜びと似ています。結婚式にみられる無条件で人を祝福する雰囲気、無条件で喜べる雰囲気は、キリストと私たち教会が結びつく新しい契約の雰囲気を表すのにふさわしいといえます。
イエス様は、結婚を祝福し、影で気を配ってくださる方であります。
そして結婚式の喜びと祝福にあふれた雰囲気は、新しい契約を表現するのにふさわしいといえます。
イエス様の時とは十字架の時をさします。
イエス様が水をぶどう酒に変えたことは、ユダヤ教の水による清めの儀式から十字架の血による清めへと新しい時代の移り変わりを象徴しています。イエス様を信じる新しい時代が始まりました。十字架の血による新しい契約が、律法主義的戒律からクリスチャンを自由にします。イエス様を信じて、パンとぶどう酒による新しい契約に預かり、神様の与えてくださる喜びと祝福を自分のものとして受けていただきたいと願っています。
イエスキリストの出現によって、新しい時代が到来しました。イエスキリストを信じた時から、私たちは新しい歩みが始まったのです。
2章から先、新しい歩みについて、新しい時代がきたことについて、新しい歩みについてずっといろいろな角度から語られています。ユダヤ教の水による清めから十字架の血による清めについて、目に見える神殿から新しい神殿について、3章になると新しく生まれることについて、4章になるとエルサレム神殿礼拝ではない霊的なまことの礼拝について語られています。
ヨハネの福音書を学びながら、新しい歩みを始めた私たちも、さらに新しくされていきたいものだと思っています。