ヨハネ1:17「モーセ律法とキリストの恵み」(No. 5) 

1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

1、恵みの源

前回は、ヨハネ福音書1章16節のところからキリストが恵みの源であり、私たちは恵みの上にさらに恵みを受けることができるということについてお話いたしました。

先週は、恵みの上に恵みを受けたことの例として、少しハイライトを話始めました。するとたくさんのことを話してしまい、時間切れになってしまいました。最近のことを証することができませんでした。

私は、家内の佳子さんと結婚した恵みも証したいと思っています。前の奥さんをがんで失ったことの悲しみに打ちひしがれ落ち込んでいた私にとって、佳子さんとの出会いは神様からのギフトだとすぐに直観できるものでした。悲しみが喜びに変わりました。お互いにいつもいっしょにいたいと思える思いが何年たっても消えないのです。さらに、佳子さんという奏楽者が与えられたこと、カレー作りなどで上手な料理人が与えられたことの恵みは、私だけが受けているのではなく、この教会にも広がってきています。私は、あまりこの神からのギフトとして佳子さんが与えられたことの恵みをあまり長々と強調してはいけないと思いました。このまま続けると、ただののろけ話になってしまいそうなので、このくらいにしておきます。でも夫婦が愛し続けることができるということは、恵みだと考えています。

 

さてきょうは17節からお話をします。17節では旧約の律法と関係させて、キリストの恵みが語られています。来週は18節からお話をします。こんな調子で1節ずつ毎週お話をしていったら、全部終わるのに何年かかるだろうか、と思ってしまいます。でもヨハネ伝のプロローグが終わったあとでもう少しスピードアップしますのでご安心ください。

1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

17節にある「恵みとまこと」という言葉はちょっと解釈が難しいのですが、これは、「まことの恵み」と訳することができる用法です。

難しい文法用語を使いますと二調一意法(hendiadys)といわれている用法です。二調一意法というのは、形容詞+名詞のかわりに、名詞+名詞にして片一方の名詞が形容詞的な意味として使われる言い方です。たとえば英語でbread and butterとあると、私たちは「パンとバター」と訳しません。「バターつきのパン」と訳します。バターは形容詞的に使われていて、パンを修飾することばです。a cup and goldはa golden cup(金のカップ)という意味ですし、death and honorもhonorable death(名誉ある死)という意味です。

同じように「まこと」も形容詞的に使われて、恵みを修飾する言葉です。「まことの恵みがイエスキリストによって来た」と訳すと、もっと意味がすんなりするのではないでしょうか?

17節の「恵み」は、9節の「まことの光」と関係する表現です。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(新改訳)

1:17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。

(口語訳)

キリストが「まことの光」、つまり「光の根源」であるように、イエスキリストは「まことの恵み」つまり「恵みの根源」でもあるのです。

新改訳は「実現した」と意訳していますが、素直に訳すると口語訳のように「来た」とか新共同訳のように「現れた」と訳するべき言葉であります。

「まこと」というのは、影(shadow)や写し(copy)ひな型(Type)に対して実物、本物、本体という意味です。旧約の律法はキリストの影、写し、ひな型であるのに対して、本物はキリストであるという対比です。恵みの源であるキリストによって、本物の恵みを受けた、完全な罪の贖いを受けた、本体の恵みが何であるかが現れたという意味です。

この恵みの根源はイエス・キリストから来たということと、律法はモーセから来たということとが対比されています。旧約聖書にあるモーセ律法と新約時代に人となって生まれたマリヤから生まれたイエス・キリストとどう関係するのでしょうか?旧約時代と新約時代とどう関係するのでしょうか?

ある人は、旧約時代と新約時代を鋭く分け、旧約の律法はもう自分たちと関係ないと考える人がいます。また律法は旧約時代のことであり、恵みは新約時代のことだと考えてしまう人がいます。律法と福音を対立的に考える人がいます。これは正しい解釈ではありません。

旧約時代にも恵みがあったし、新約時代でもモーセの十戒など道徳律法は今でも有効です。モーセの十戒はいつの時代でも通用する普遍な神様の道徳の基準を表しています。

祭儀律法(ceremonial laws)は「いけにえ」の本体であるキリストによって成就しました。ですからもうキリストのひな型である動物の「いけにえ」をささげる必要はありません。動物の「いけにえ」などの祭儀は、本体であるキリストが現れて完全な罪の贖いをしたので、もう必要ありません。もう私たちは、罪の贖いのために、動物のいけにえを捧げる必要はありません。でもモーセの十戒に代表される道徳律法は、いまでも正義の基準として、人生のガイドとして有効なのです。

新約は旧約の律法の成就なのです。ですから律法と福音は対立するものではないのです。

 

2、律法主義(legalism)と反律法主義(antinomianism)

2-1、律法主義

福音と対立する非聖書的な考え方が二つあります。一つは律法主義(legalism)です。パリサイ的律法主義と言った方がいいかもしれません。これは神の恵みよりもよい行いをすることによって救われるとする立場です。自分の力で正しい人になろうとし、自分で自分を正しい者だと考える自己義認の立場です。これは道徳主義(moralism)とも言われています。つまり自分の力によって、道徳的実践によって正しい人間になろうとする立場です。日本人には、この律法主義(legalism)道徳主義(moralism)をお持ちの方が多くいます。この立場は、自分の力で正しく歩もうとはしますが、中途半端で終わってしまいます。そしてこの立場は、他の人を非難しとがめてばかりいて、自分を絶対化してしまいます。自分は規則を守っている、礼儀を守っている、自分はいつも正しい。しかし、あの人はここが悪い、あそこが悪いと責めてばかりいる立場です。自分は律法を守っている、守ることによって救われようとした立場です。こういう生き方をしていますと、いつのまにか冷たい人間になってしまいます。

当時パリサイ人、律法学者は、旧約の律法を守ることによって人が救われ永遠の命を得ることができると考えていました。ところが旧約聖書自体は、人は律法を守ることによって救われ神の前で正しいと認められるとは書いていないのです。

「アブラハムは、神を信じた、だから義と認められた。」と書かれているのです。

創世記15章6節を見てください。

15:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

ハバクク書2章4節でも「義人は信仰によって生きる」と、創世記と同じことを説いています。

2:4 見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。

  しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

パウロはローマ書1章17節やガラテヤ3章11節でこのハバクク書を引用して、律法を行うことによって神の前に義と認められる人はいないことを説いています。

ガラテヤ3章11節を引用します。

3:11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。

旧約時代でも人が救われるのは信仰によるのであって、行いではないのです。パウロはローマ書やガラテヤ書で

自分の行いによって自分を正当化しようとしたこのパリサイ的律法主義に対して正しい福音の理解ではないといって激しく攻撃したのです。

 

2-2、反律法主義

福音と対立する考え方の一つがこの律法主義でありました。もう一つ、福音と対立する考え方があります。それは反律法主義(antinomianism)です。今の時代は、新約の時代なのだから、もうモーセの律法はいらないとする立場です。旧約聖書の律法はもう新約時代では廃棄されたのだから、好きなことをやっていいんだ、もう律法から解放されたのだから道徳の基準などはないのだ、という考え方です。自分の欲望のままに快楽にふける態度は、一種の無律法主義(antinomianism)です。「規則なんか堅苦しくていやだ。道徳なんかくそくらえだよ。自分の自由に生きて何が悪い。」という考え方です。

ところがイエス様はマタイの福音書5章17節と18節でこうおっしゃいました。

5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

イエス様は、律法を廃棄するためにきたのではなく、成就するために来たとおっしゃっています。ですから、律法と福音(あるいはイエスキリスト)を対立的に考えることは聖書的ではないと言えます。私たちは、律法とキリストの福音を正しく理解する必要があります。私たちは、律法主義のアンバランスにもかたよらず、また反律法主義のアンバランスにもかたよらないで、バランスを保った理解をする必要があります。

 

3、律法の二つの役割

では律法とキリストの福音とはどういう関係にあるのでしょうか?律法の役割を二つあげておきます。

3-1、人を命へ導くガイドとしての律法

律法の第一の役割は、律法は人を命へ導くガイドであるという点です。律法は何が正しいことかを明らかにします。律法は正義の基準を示し、人を教育する教育係りの役割を果たします。律法は社会の中で正義の基準を与えます。実際にモーセの十戒は伝統的なアメリカ社会の正義の基準を与えるスタンダードとなりました。今それがくずれかけていますので、多くのアメリカ人のクリスチャンが危機意識を持っています。それでモーセの十戒の普遍性を説くいろいろな運動が行われています。

律法は、それ自体はよいものです。律法は、本来はその人を命へと導くガイドの役割を果たすものです。ちょうど子供を危険から守り、正しい道に導こうとするために親が作った規則のようなものです。

「こっちにいったらいけませんよ。あぶないですよ。正しい道はこっちですよ。」「これを食べたらばっちいですよ。」「おかあさんの言うことを聞きなさい。こんなことをしたらいけないでしょ。」そうやって親は律法を作って子供を育てます。それは子供をだめにしようとか、子供をダウンさせようと意図しているわけではなく、正しく生きる道を教えるためのガイドであるのです。カルビン主義(Calvinism)は人生のガイドとしての律法の役割を強調してきました。

3-2、人が罪人であることをあばき、人をキリストへ導く律法

律法の第二の役割は、人の罪をあばき、人が罪人であることを明らかにし、人をキリストに人を導くことです。

律法そのものはいいものであります。しかし、その律法があると、人はその律法を守れない罪人であることがあきらかになります。母親は子供に親の決めた規則に違反しているといつもしからなければならなくなります。

「こんなことをしてはいけないって言ったでしょう。どうしてまたそんなことをしたの?」

「またやった。何度言ったらわかるの。もうわがままはやめなさい。」

多くの子供は親にそんなことをいわれながら育っていきます。

律法は人が罪人であることを明らかにします。

律法は、人間が違反者であり、わがままであることを責めることになります。そして人間が律法を守れないわがままな者であることを明らかにします。

律法は罪人の罪を指摘し、人間を責めるものです。人間をとがめ、断罪し、人間の良心を突き刺すものです。

「盗むな」「うそをつくな」「むさぼるな」「高ぶるな」「ねたむな」「不品行をするな」そういう律法があって、はじめて自分は罪人であり、この律法の前で正しい者ではない、自分は弱くもろくみじめな者であることがわかります。

律法は神に救いを求めるように促すことに役にたつのです。

旧約聖書、特にモーセ五書がよくわからないと、新約のキリストの恵みが十分にわかりません。

罪の正しい認識があって、それを神様の前で悔い改めて赦してもらい、はじめて神の赦しの恵み深さや神の深い愛がわかるのです。

救いを求めて救われ、導きを求めて導かれ、助けを求めて助けられてはじめて、「私たちは恵みの上に恵みを受けた」と告白することができるのです。

律法は人が罪人であることを認めさせ、悔い改めに導きます。福音は、その罪を赦し救ってくださるキリストに対する信仰へと導きます。ルター派の神学は、人間が罪人であることを認めさせるこの律法の役割を強調しています。

 

4、律法とキリストの恵みの関係

旧約時代の人々は、将来のきたるべきメシヤを待ち望みつつ生活しました。新約時代に生きる私たちは、過去の十字架と復活の歴史的事件をいつも振り返りながら生活しています。救いのめぐみは過去の十字架と復活によって来たからです。

イエスキリストを信じるだけで、私たちの罪が赦され、永遠の命が与えられるという新しい契約の恵みは、イエスキリストによってはじめて実現したのです。メシヤが来るという旧約聖書の預言は、キリストによって成就したのです。

それまで罪の贖いのための動物の「いけにえ」をささげるという贖いの儀式は、不完全であり、イエスキリストの贖いのひな型であり、キリストの贖いを指し示すものであり、イエスキリストが来てから本体の恵みの源が明らかになったのです。

さきほどマタイの福音書5章を引用して、キリストは律法を成就するために来たと言いました。これはどういう意味なのでしょうか?

どうしてイエスキリストは律法の成就なのでしょうか?新約時代では、律法から解放されたのではないのでしょうか?律法から解放されたのに、何故キリストの恵みが律法の成就なのでしょうか?

その理解を助ける聖書の箇所を引用しましょう。

ローマ7:2-6までお読みします。

7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。

 7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

 7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

 7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。

 7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

ちょっとたとえ話をして、モーセ律法とキリストの恵みの二つの関係について説明したいと思います。

ある人が律儀な男の人と結婚しました。名前はMoses Law と言いました。Mr. Lawはきちんとしたいい人で、いい奥さんになるためのいろいろな規則書を彼女に渡しました。その規則書はみなもっともなことが書かれていました。いろいろすべきことがリストされていました。「ご主人に仕え、ご主人に従いなさい。朝はご主人が出勤するまでに早起きして食事を作っておきなさい。夕食の時間までに心をこめて食事を作り終えなさい。料理をめんどうくさがって手を抜いてばかりではいけません。勤勉でありなさい。部屋をいつもかたづけて掃除しておきなさい。無駄遣いをしないようにお金をきちんと管理(Management)しなさい。洗濯ものをためこまないで早めに洗濯しなさい。必要なものにはアイロンをかけておきなさい。電気をつけっぱなしにして寝てはいけません。子供をきちんとしつけなさい。」などなど、いろいろことこまかな規則が書いてありました。

その規則書には、子供の育て方とか、人とのつきあい方などモラルのこととがことこまかに書かれていました。モラルの規則の中には、浮気をしてはいけないとか、うそをついてはいけないとか、ねたんだりしてはいけないとか、すぐかーとなってヒステリックになってはいけないとか、なまけ者になってはいけないとか、人を恨んではいけないとか、むさぼってはいけないとか、ぶつぶつつぶやいて文句を言って神に罪を犯してはいけないとか、毎週礼拝に出て安息日を守りなさいとか、いろいろなことが書かれていました。彼女は一生懸命にその通りに実行しようと思ったのですが、なかなか実行することができませんでした。ご主人を愛し、ご主人の命令に従うということがなかなかできないままで終わっていました。ご主人に仕えるべきだとわかっていましたが、仕えるという姿勢よりは自分でしたいことをするという方が先になってしまっていました。何をしなければならないのか、わかっているのですが、できませんでした。またしてはいけないとわかっていることをしてしまいました。彼女は、金銭の管理をきちんとすることができないで、浪費ぐせがついてクレジットカードですぐお金を使ってしまい、借金だらけの生活をしてしまいました。なまけぐせがついていて、なかなか物をかたづけることができずに、家の中はちらかしっぱなしでした。すぐにカーとなって怒る癖は抜けませんでした。そしてソープオペラを見たりしてイマジネーションの世界の中で浮気ばかり考えていました。おまけに実際こっそり浮気をしたこともありました。してはいけないと言われたことをしてしまい、しなければならないとわかっていることが実行できずに、自分のみじめさを感じていました。してはいけないと言われると余計したくなることもありました。

いろいろなことが発覚し、そのたびごとにいつもMr. Lawから責められ叱られていました。Mr. Lawは、彼女がご主人に従うことがなかなかできず、言いつけを守ることができない悪い奥さんだと言いました。自分もそうだと認めていました。責められてばかりいて、険悪な雰囲気で日々を過ごしていました。

Moses Lawがある日突然交通事故で亡くなりました。Mr. Lawの声が聞けずに、悲しみの日が続いていました。彼女はあとでふりかえって、その時代をご主人の言葉が聞けない孤独な中間時代と呼びました。

ところがある日素晴らしい男性が彼女の前に現れました。

名前をChristian Graceと言いました。彼は彼女をこよなく愛してくれました。彼女は、Mr. Graceに愛されてはじめて愛とは何なのかを知り、二人は深く愛し合うようになりました。彼女は、過去のあやまちを皆告白しました。昔浮気をしたこともみな正直にいいました。そして彼女はMr. Graceにいいました。「私は、こんな悪い女です。私はあなたと結婚する資格はありません。」しかしMr. Graceは彼女をそのままみな受け入れたのです。そして彼女はMr. Graceのプロポーズを受け入れて結婚しました。新しい契りを結びました。

結婚したあと、彼女は不思議なことに気がつきました。Mr. Graceは彼女を愛し、彼女の弱さを皆受け入れてくれていて、彼女が失敗した時でもいちいち赦してくれるのです。赦しの恵みが来たのです。

彼女は、前にMr. Lawが要求していた規則書のリストをいちいちチェックしていないのに、Mr. Lawが要求したことをいつのまにか実行していたのでした。いちいち規則書を見なくても、自然になすべきことを実行できる恵みが与えられたのです。何故かなと思いました。それは彼女が愛を知って、心からMr. Graceを愛することができたからでした。

彼女はMr. Graceのもたらしてくれた恵みによって、もうヒステリックに怒りあたり散らすことがなくなり、心に平安が与えられました。彼女は、愛するMr. Graceに一生懸命仕え、ご主人を喜ばせようと思っていました。そう思っていると、自然にご主人に仕えることができるようになり、自然にご主人の言うことに従うことができるようになりました。赦してくれるご主人、愛してくれるご主人をもって幸せに感じました。Mr. Graceが与えられた恵みによっていつのまにかMr. Lawが要求していたことを自然に全うできるようになっていった自分の変化に気がつきました。Mr. Lawはいつも彼女を責めてばかりいました。ところがMr Graceはいつも愛し自分の弱さを受け入れ、赦してくれました。彼女はMr. Graceから愛を教わったので、以前Mr. Lawが要求したことを自然に実行できるようになったのでした。彼女はMr. Graceのもとで恵まれた生活をすることができていることを感謝をもってうけとめています。

これが私の作ったたとえ話です。このたとえは次のもっと素敵な愛のある夫を見つけなさいというためのたとえではありません。これは誤解のないように。このたとえは、律法とキリストの恵みの関係を理解するためのたとえです。このたとえによって律法とキリストの恵みの関係をある程度ご理解いただけたらうれしいなと思っています。律法が要求していることを自然に成就することができるのが、キリストの恵みだということを是非きょう心にとどめていただきたい。

キリストは私たちの罪を完全に贖い、私たちを義と認めてくださいました。

律法を守ろうと思ってもできない私たちのために、キリストは文字による規則書ではなく、聖霊による恵みによって、愛の恵みによって、律法の要求を満たすことができる道を開いてくさったのです。

キリストは恵みの源です。この恵みの源であるキリストにしっかりつながる時に、神の豊かな恵みを次から次へと受けることができるのです。

みなさん一人一人も、キリストのあふれる恵みを受ける受け皿、キリストの恵みを受ける器となっていただきたいと祈ってやみません。