ヨハネ1:43-51「天からの階段」 (No. 11)

先週は、キリストのもとに来て、霊的な眼でキリストを見るというお話をしました。二人の弟子たちは、イエスのところに行き、目が開かれ、イエス様が神のところにとどまっておられるキリスト救い主であることがわかりました。そしてアンデレは兄弟シモンペテロに証をしたというお話をしました。

きょうは、その次の日の出来事です。ピリポというガリラヤのベツサイダ出身の人(ヨハネ1:44)が同じガリラヤのカナの出身のナタナエル(ヨハネ21:2)にイエス様を紹介するという場面です。ピリポが証した相手は友人知人でありました。ごく自然な身近な人に証をしました。ナタナエルは、一般にバルトロマイと同一人物であったと考えられています。ヨハネ福音書にでてくるナタナエルは、他の福音書ではトロマイの息子という意味でバルトロマイという名前で出てきたのではないかと考えられています。他の福音書ではピリポとバルトロマイは一組になってでてきます(マタイ10:3、ルカ6:14)。ですから、きっとピリポと仲のいい友達であったと思われます。

ヨハネ福音書1章43節から53節を読んで見ましょう。

1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。

 1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。

 1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。

ピリポは、イエス様がどういう方なのかを紹介する時に、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」と言って紹介しました。昔旧約聖書のことを「モーセと預言者たち」といいました。モーセとはモーセ五書を指します。預言者とは、歴史書と預言書を指します。ですから、ピリポがナタナエルに言ったことは、要するに旧約聖書全体が書き記している約束の人物に出会った、それがナザレのイエスだということでした。

みなさんは、どんなふうにイエス様と出会いましたか?みなさんの中にはアンデレのように物好きで自分から求めて教会に飛び込んだ人もいることでしょう。ペテロのように兄弟親戚から誘われて信仰に入った人もいることでしょう。あるいはナタナエルのように友達に誘われて信仰に入った人もいることでしょう。信仰に入った経路は人によって千差万別でしょうけれども、あることが共通しています。それはイエス様という聖書に書かれている方を信じたという共通点です。どんなきっかけどんな動機からイエス様を信じるようになってもかまいません。私たちはすべての人に共通する聖書を持っています。そしてその聖書は全体として一人の方を指し示しています。新約聖書だけでなく旧約聖書も全体として一人の方を指し示しています。その名前をヘブライ語でメシヤ、ギリシャ語でキリストといい、油注がれた者(the anointed)救い主という意味です。旧約聖書が全体として指し示しているその方がいったいだれなのか、いつ現れるのか、人々は待ち望んでいました。ピリポは感激して、「自分は今その聖書全体が指し示している方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの息子のイエスだ。」と証したのです。

みなさんの中には旧約聖書はどうも難しい、よくわからない、と思っている方もいるかもしれません。でも旧約聖書は全体として一人の方を指し示しています。それがキリストです。聖書をキリストを中心にして読んでいきますと、聖書が統一性をもっていることに気がつきます。

宗教改革者ルターはキリストを中心に聖書を読むことを再発見しました。聖書の中心はキリストなのであって、イエスキリストがどういう方かを理解することが、聖書全体を理解する早道なのです。そしてキリストを中心に聖書を読んでいくと、聖書を全体を統一的に理解できるのです。

ナタナエルはピリポからキリストが誰であるかのニュースを聞きました。ところがナタナエルには偏見がありました。一つの固定観念があって、そのためにすぐにその証を信じることができないでいました。

ナタナエルにはキリストが自分と同じいなかのガリラヤ地方から起こるはずがない、という偏見がありました。ガリラヤのような方言の強い東北地方からキリストが出るはずがない。ましてや、ナザレ村といういなか村から王なるメシヤが起こるはずがないという偏見がありました。

イエス様を信じることができない人の中には、いろいろな偏見があることがあります。「キリスト教は外国の宗教でしょ。」仏教も儒教も外国から入ってきたのに、何故かキリスト教だけは外国の宗教だから受け入れるべきでないという偏見を持っている人がいます。「キリスト教は西洋の宗教でしょ。」という人もいます。自分はベッドに寝て、西洋の音楽を聞いて英語を使って仕事をしているのに、西洋の宗教だからいやだという偏見を持っている人がいます。キリストは西洋人ではなく、東洋人です。中東というヨーロッパに近い東洋の西の果てに生まれた方でした。日本はヨーロッパから一番遠い極東(far east)に位置しています。でもイエスキリストはアジアの人だったのだ、というような議論したところであまり意味がありません。

偏見をもっている方に一番いい方法は、キリストのもとにその人を連れていくことです。

友達に伝道する場合、イエス様のところに連れて行って、イエス様に出会ってもらう、これが真の解決になります。ピリポはこの賢い方法をとりました。

46節を見てください。

1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

聖書はある一人の偉大な方を指し示しているのですから、その方を信じていただくためには、その方に出会っていただく以外に方法はありません。

縁談のお世話をする時、「向こうのお嬢様はこんなによい方ですよ」といくら口で説明しても、履歴書を持っていってもそれですぐに結婚できるわけではありません。結婚相手の問題は、本人と出会っていただくのが一番いい方法です。

哲学の命題であれば議論することができます。数学の問題であれば証明することができます。けれども人柄というものは、何と言ってもじかに出会ってもらうのが一番いいのです。また出会わない限り、どうにもなりません。

私たちのまわりには、キリスト教のことは少し聞いているけれども、そんなもの「何のよいものか」という偏見や先入観や固定観念をもっていらっしゃる方がいます。食わずぎらいの方もいます。ある人は、仏教を知らないのに「うちは仏教で結構です」とか、「あまり若い時に宗教に凝るものじゃない」とか、「宗教はいいがほどほどに。あまり深入りするものじゃない」というような日本的な固定観念にしばられている方がいらっしゃいます。

そういう場合、とにかく聖書にふれ、御言葉を聞き、集会に来ることを通してキリストに出会っていただかない限り、その人にとってキリストは意味がない存在で終わってしまいます。

キリストを証する場合、人をキリストのもとに誘ってはじめて証になります。でもその場合、証をする人自身がイエス様と出会い、その素晴らしさを味わっていなければ功を奏しません。証する人の中に、イエス様は素晴らしい方なんだ、という実感がなかったら、食わず嫌いの人に「イエス様のところに来てみてごらん」と誘うことができません。本当に素晴らしい方なんだ、という感激を持っている場合にだけ、他人を説得する力が出てくるのです。

初めての方や求道者の方に暗い表情で「またおいでください」というだけではその人の魂をとらえることができません。キリストに出会い、キリストが自分にしてくださったことの感動を伝えることができるように、私たちも常にキリストと出会っている必要があります。

ヨハネ1:47をみて下さい。

1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

ナタナエルは偏見は持っていましたが、パリサイ人のように自分の固定観念を絶対化して、「ああ自分は知っている。よくわかっている。」という顔をしませんでした。

あるパリサイ人はこう言いました。

7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」

これに対してナタナエルは、疑問はある、疑いはあるけれどもとにかく行ってみよう、と思って実際に行動に移し、確かめに行ってみたのです。

1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

自分はよく知らないけれども、本当かどうかとにかく行ってみよう、と思ってイエス様のところに行ってみたのです。はじめから結論を決めてかかって、腰を上げようともしない人ではなかったのです。本当かどうか人生の探求をする行動をとってみたのです。これは誠実な態度でありました。ナタナエルは、真理かどうかまだよくわからないけれども、真理なら従おう、という心に偽りのない誠実な態度がありました。偏見はだれでも初めもっています。イエス様はそのことを責めようとはせずに、イエス様はナタナエルの誠実さを誉めていらっしゃるのです。イエス様は、どれほど間違った固定観念を持っているかということは問わないで、ほんの小さなこと、純粋に誠実な気持ちでイエス様に近づいていったという点を取り上げて誉めているのです。

ナタナエルは、疑問があり、わからないことだらけでした。けれども、「来てみなさい」と誘われたので、実際にキリストのもとに行きました。この誠実な態度は、「自分はキリスト教がどんなものかわかっている」と決めてかかっている態度と大きな違いとなります。

1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」

 1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。

ナタナエルとイエス様との会話が詳しく記録されていないので、ナタナエルがどれほど驚いてイエス様を信じるようになったのか詳しいことはよくわかりません。わかっていることは、ピリポが自分を呼びにくる前に、自分がいちじくの木の下にいるのを見たというイエス様の言葉にひどく動かされています。そしてこれがきっかけで49節にあるように「イエス様が神の子である」という信仰告白に導かれています。

「この方は不思議な知識を持っている。自分がイチジクの木の下にいたことなど、自分以外のだれも知らないはずなのに、だれも見ていなかったはずなのに、何キロも離れていたこの方が自分を見ていたという。自分のしていた様子を逐一見ていたとおっしゃる。そしてそれをぴたりと当てた。この方は千里眼を持っている。人間業ではない。自分は見られている。」ナタナエルはそう考えて信仰告白に導かれたと思われます。

この方は、自分の心の奥までも見通すことができる人だ、そう考えたのではないかと思われます。神様は、自分のすべてを見通すことができる方です。遠くを見通す目、千里眼をもっているということがイエス様が神の子であることの証拠だとかんがえたのでありましょう。こうしてナタナエルにイエス様を信じる信仰が与えられました。

人は自分の心を見抜かれた時に、その人をさすがだと思うことがあります。

でもだれも見ていない所で隠れたところで行ったすべてを遠くから見通す力は人間にはありません。ナタナエルには、イエス様の不思議な力によってイエス様を信じる信仰が与えられました。

自分がイエス様に見られている、主が自分を見ておられる、ということに気がついたのです。

よく不思議な経験の重なりにしてはよくできすぎている、という生活を通して、神様が自分をご存知で自分の人生を導いていらっしゃるのではないかと思うことがあります。いろいろなことを通して自分を見ておられる神様がいらっしゃるという信仰に導かれることがあります。

ある人はこう言いました。「日曜日に礼拝に行った週と行かない週とどうしてこんなに違うのかなと不思議に思う。もしかしたら神様がいて、私に教えようとしているのではないか」そう直感して信仰に入った人もいました。

ある人は、こういいました。「いろいろなきっかけで自分の回りにクリスチャンがいてどこにいってもそういう人の影響を受けてきた。やっぱり神様は自分の生活の中で、そういう人を用意しておられたのではないか。」

自分が神様から見られている、と意識して信仰に入った人もいました。

主は私たちを見ておられます。だれも見ていなくても、屋根があって密室の場所であっても主は見ておられます。だれもいない野原に行っても、だれもいない木の下にいても、主は見ておられます。

主は私たちが何をしているのか、みな見ておられます。どういう気持ちを持っているのかもみな知っておられます。どういう悩みをもっているのか、どういう問題をもっているのかもみな見抜いておられます。何を祈ったのか、どういう気持ちで祈ったのかもみな知っておられます。

ナタナエルは、自分が主に見られている、知られないはずの自分のことを見られている、と知って脱帽し、イエス様を信じるようになりました。

信仰者の生涯はそんなことだけで終わるのではありません。

これはほんの序の口です。

さらにもっと大きな神の栄光を見るステップに過ぎません。1章50節51節を見てください。

1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」

 1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

自分が見られている、知られている、と気がついて入信して、それで終わるのではない。さらに大きな信仰の体験、知らなかったものへの認識にクリスチャンは引き込まれていきます。

信仰生活を送るに従って、さらにキリストの素晴らしさがわかってきます。キリストの神としての栄光が段々とリアルにわかるようになっていきます。

51節の話は創世記の28章に出てくるヤコブの体験との関係でキリストを信じた者に対する約束が語られています。

創世記28章10-19節を開いて見ましょう。

28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。

 28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

 28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

 28:13 そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

 28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

 28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

  28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。

 28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

 28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

 28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

前に創世記からお話をした時に、ヤコブが夢を見た時の話しをしました。

ヤコブは逃避生活をしていました。兄のエサウの怒りを逃れて旅をしていました。あるところで野宿している時に夢を見ました。それは天から階段がするすると地上におりてきたという夢です。新改訳ですとはしご(ladder)と訳されていますが、新共同訳ですと階段(a stairway)と訳されています。新共同訳の方が正しいと思われます。メソポタミヤ地方では、ジグラッドという名前の天に届くことを目的とした階段状の塔がいくつも作られました。バベルの塔もそれの一種だったと思われます。バベルの塔は地上から天に向かって建てられますが結局人間の営み努力で人間は天に達することができません。ヤコブの見た夢ではそれと対照的で、天の方から地上に向かって階段がするするすると伸びて行ったという夢です。

天と地との間に隔たりがあります。これを埋める本物の道は、人間の側から神に向かうのではないのです。神の側から地上に向かい、神の側から啓示されるのです。

ヤコブは神様がどこへ行っても自分のそばにいて自分を守り自分を導いてくださる、神は決して自分を見捨てない」という声を夢で聞きました。「神様がこんなへんぴなところにいる私のような逃避生活をしている自分とともにいてくださるんだ。」ということを知り、神を礼拝し、その場所をべテル、神の家と名づけました。

ヤコブは神と人とを結びつける道、階段という夢を見ました。そしてその階段の上を天使が行ったり来たりするという夢を見ました。この神と人との間を結ぶ階段は何を指すのでしょうか?ヤコブにはそれは謎でした。イエス様は、その回答を与えておられます。

ヨハネ1章51節をよく読んでください。

1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

イエス様は、「人の子の上を上り下りするのを見る」とおっしゃいました。天使が上がったり降りたりしているその道は「人の子」イエス様だったのです。つまり、ヤコブが見た天からするする降りてきた階段という幻は、イエス様を現す象徴だったのです。ヤコブはキリストが現れる1900年以上も前にキリストをあらわす階段の夢を見たのです。そして1900年以上たったあと、

人となられたメシヤキリストが実際に天から降りてきて天と地をつなぐ道となれたのです。

イエスキリストは本質において誠の神でありながら、同時に誠の人となられました。イエスキリストは神と人をつなぐ仲保者(mediator)なのです。イエスキリストこそが人が天国へ行く道なのです。イエスキリストこそが神がどういう方なのか啓示された啓示者なのです。

イエス様は、人の子キリストという道を天使が上ったりおりたりするのがわかるようになるとおっしゃいました。

これはどういう意味なのでしょうか?

天使は直訳しますとメッセンジャーとも訳されています。つまりメッセージを伝える役割をも持っています。

律法もみ使いを通して仲介者キリストの手で定められたとガラテヤ書は言います。(ガラテヤ3:19)

また天使は、目には見えませんが、人間の祈りを天の神の御座まで運んでいってくれる存在です。御使いが上ったり下ったりするというのは、神と人との交わりやコミュニケーションを指します。

イエスキリストの名前によって祈る私たちの祈りは、みな天使が父なる神のもとへ運んでいってくださるのです。

神は人の子イエスキリストという道、チャンネルを通して天使に御言葉を送ります。天使はその神のメッセージを人に伝えます。また天使は人の祈りや訴えを神の御座のもとまで運びます。

51節で「天が開けて」とあります。これはもとの言葉では、天が開きっぱなしと訳せます。天は今でも私たちのために開かれていて、私たちは神との親しい交わりに招かれています。

私たちは、イエスキリストの名前によって祈ります。イエスキリストだけが、天につながっている私たちに開かれた唯一のチャンネルなのです。

私たちは、イエスキリストを見るとき、父なる神様がどんな方なのか、理解することができるのです。イエス様という道があるので、神様とコミュニケーションを持つことができます。またイエス様が地上にまできてくださったので、神様がそばにいてくださると実感することができるのです。

イエス様がいらっしゃるので、私たちは主を見ることができ、主も私たちを見ていらっしゃる、そばにいて守ってくださっていると実感できるのです。

不安な人生の旅路を続けていたヤコブ、これから先どうなるのだろうと将来を憂いていたヤコブは、主が共にいてくださり、どこに行っても守っていてくださる、決して見捨てない、という夢をみました。それによってヤコブは不安と恐れが消え、礼拝と賛美へと変わって行きました。ヤコブはその場所を神の家と名づけ、主への献身へと高められていきました。

はじめは、主は自分をみていらっしゃるというほのかな信仰から出発する人もいるかもしれません。

でもそれに終わることなく、私たちはさらに深く神の臨在を体験し、なお深く主を知り、主の栄光を見、主の栄光を拝するように招かれています。私たちがどこにいっても、神はともにおり、天は私たちのために開かれているのです。

イエスキリストを信じた私たちは、国籍を天にもっています。私たちは地上ではヤコブのような寄留者として生きています。

さらに地上の生涯を終えて主のもとに行った時に、もっと素晴らしい主の栄光を見るように招かれています。

さらに再臨の時に主の栄光をじかに見ることができるのです。主が私を見ておられる、主がともにおられるという臨在の経験のあとに、ますます主の栄光をみるという素晴らしい体験が私たちを待っていると御言葉がわたしたちに教えてくれます。

天が私たちに開かれており、イエス様というチャンネルを通して神様との素晴らしい交わりに私たちが招かれていることをきょう覚えていただきたいと思っています。

私たちは、主に見られているという意識を持って信仰に入ります。

でもクリスチャン生活はそれに終わりません。主に見られている、自分も主を見るという主イエスキリストを媒介とした神との親密な交わりは、信仰生活を重ねるに連れてだんだんと深められていきます。そして主の栄光を実感する体験が私たちを待っています。その主の栄光を見る体験は、死後も続きます。死後主を直接見るというもっと素晴らしい体験へと私たちは召されているのです。イエス様を信じることの素晴らしさをこれからもますます体験していきたいものだと思っています。

 

1件のコメント

現在コメントは受け付けていません。