17年09月17日礼拝説教ヨハネ2:12-22「宮清め」(No. 13)

10月14日のチャペルコンサートと15日の音楽礼拝のために誰を誘うか、祈りはじめていますか?まだ名前を挙げて祈っていない方、ぜひ今日から始めてください。

私たちが収穫のための働き人になれるように、祈りはじめてください。

 さて今日のお話に入っていきます。今日は宮清めといわれている箇所です。

多くの人が、キリストは優しいだけで怒ることをしない方だと思っています。キリストはくだらないことでは決して腹をたてて罪を犯したりなさらない方です。でも義憤という気持ちは持っていらっしゃいます。

父なる神様も子なるキリストも怒るべき時には怒るのです。キリストはムチを作って羊も牛もみな宮から追い払い、両替人の机にあるお金も撒き散らし、その台をひっくりかえしたというのですから、そうとうはでにやらかしたようです。

じゃあ私もまねをして派手なデモンストレーションをしようと思う人も出てくるかもしれませんが、そこは一人一人が良心の自由に沿って行動していただきたいと思っています。

一言お断りしておきたいのですが、キリストは人間として傷害や殺人のような暴力行為は一度もなさらなかったのです。暴力の定義にもよりますが、きょうの宮清めの箇所を引用して、だから暴力は許されると結論づけるのは早計です。

ただ、イエス様はたいへんお怒りになって、実力行使をなさいのったのは確かです。どうしてそんなことをしたのでしょうか?何をとがめていらっしゃったのでしょうか?

2章16節を見てください。

2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。

 イエス様は別の時にも宮清めをなさいました。マルコによる福音書11章15節―17節にも何故イエス様がお怒りになったのかという理由が書かれています。

11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、

11:16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった

11:17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」

 イエス様は宮の中にごみごみした商売を持ち込んで、礼拝をさまたげ、祈りを妨げていることをとがめたのです。がさがさした礼拝の雰囲気によって、祈りの場ではなくなってしまったからなのです。祈りの家ががさがさした商売の場所になってしまったのです。

礼拝の場がごみごみ、がやがや、ざわざわしていました。「はい、いらっしゃい。次はだれ?何を買いたいの?羊1頭。はいどーぞ。まいどありー。」そんな調子でした。

マルコ伝ではイエス様は、宮の中で近道のために器を持って宮の庭を通りぬけることさえも禁じなさったのです。

それは礼拝の邪魔になるからです。

ここは異邦人の庭と呼ばれていた場所でありました。神殿の外側の庭にあり、異邦人の礼拝のために作られた場所でありました。当時ユダヤ教は「一人の改宗者を作るために海や陸を経めぐり歩く」とイエス様がおっしゃったほどに地中海沿岸各地に出かけ、聖書翻訳をし、一生懸命異邦人伝道をしておりました。せっかく異邦人のために礼拝の場所を設けておきながら、最も大切な礼拝を清らかに静かに守ることができないようにさせていたのでありました。

私は、昔カナダにいたころ、礼拝の最中にすぐ後ろにあるキチンで大声でがやがやと雑談をする話し声が聞こえたことがありました。私は、礼拝の最中に抜け出して、それをとがめに行ったことがありました。「今礼拝中です。雑談は謹んでください。」そう言ってかなり厳しくとがめたことがありました。

礼拝の場では、他の人の礼拝を妨げないように雰囲気に気をつけなければなりません。祈りが妨げられないように、配慮しなければなりません。

礼拝は、楽しく喜びのある礼拝の方がいいので、固くなる必要はありません。リラックスしてくださって結構です。でも礼拝は神様に心を向ける時ですから、祈りが妨げられるようながさがさした雰囲気の礼拝では、礼拝にならなくなってしまいます。グローリーチャーチ高松でも、今後とも人が心から神を礼拝できるような、神に喜ばれる礼拝を作っていきたいと願っています。

イエス様が怒られたのは、さらに商人たちの態度でありました。これを経営していたのは、祭司階級でありました。これを「アンナスの売店」と呼ばれ、大祭司アンナス一族の所有でした。当時両替人や牛や羊や鳩を売る人たちは、商売に夢中になっていて、神様を忘れてしまっていましたのです。彼等は、自分の利得のことだけを考えて、神のことは少しも考えていなかったのです。

それで彼等は宮にふさわしくないと考えて、イエス様は彼等を追い出してしまったのです。

イエス様は、商売のことビジネスのことばかり考えて神様のことはそっちのけ、祈りもそっちのけという神殿の腐敗した商業行為をイエス様は怒られたのです。

教会が商売に熱心になるのは、中世の免罪符販売の時だけでなく、今でも見られる現象です。ただもうけるためだけのために、あるいは身を保つためだけのためにビンゴというかけごとをしたり、バザーをしたり、ダンスパーティーの券を売ったりしている教会があります。

市民のために門戸を開いてコミュニティーを作り、他のために奉仕をしようという意図でするなら結構なことかもしれません。伝道とコミュニティーへの奉仕という目的で活動をするのであれば、神様はその活動を祝福されるかもしれません。あるいは会堂建築のために一生懸命になあるのであれば、結構なことかもしれません。でも神様を忘れて商売を始めたら、神様はお怒りになります。

北米では、ダウンタウンの大きな教会で人が少なくなり、礼拝よりも商売に熱心になってしまう教会があります。ある教団がそれぞれの教会に通達を出したことがありました。「伝道を忘れ、大きな建物をただ維持するだけを目的として商売しているなら、そんな教会はつぶしてしまうか、再編成してしまう方がいい。」こういう趣旨の通達をある教団がありました。

教会は非営利団体です。利潤追求を目的にしません。教会は時には入場料をとって音楽コンサートをすることがあります。コンサートの目的はミニストリーであり、神をあがめることにあります。無料にすると安物だと思われてかえって人がこないので入場料をとることがあります。でもこれは営利を目的にしているわけではないのです。

教会は、伝道し、神によろこばれる礼拝をささげ、教育をし、交わりをし、コミュニティーに仕えるというミニストリーを持っています。そういうミニストリーを忘れ、私たちの心が神様から遠く離れてしまったら、私たちの心を宮清めする必要があります。心が神様から離れて、ただのがさつな社交の場になってしまったら、私たちの心もキリストによって宮清めをしていただく必要があります。礼拝中、神様に無関心で、仕事や金儲けや人のことばかり考えているようながさつな心があるなら、私たちの心が清められる必要があります。

静まって神に心を向け、真心からの礼拝をささげて行きたいと願っています。

イエス様は、宮清めを通してさらにもっと大切なことを私たちに教えようとなさいました。

弟子達には、その大切なことをだいぶあとになって、イエス様が復活したあとでやっと理解できたことがありました。

2章18節から22節までのところを読んでみましょう。

2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

当時全世界にディアスポラと呼ばれる散在したユダヤ人が住んでいました。過越しの祭りになると外国にいる大勢のユダヤ人が犠牲を捧げにエルサレムに上ってきました。けれどもいちいち犠牲の動物を外国から持ち込んでくるわけにもいかないし、エルサレムで動物を手に入れても、それが傷のないものかどうか祭司に調べてもらわなければならなかったのです。

それで便利なことに神殿の境内ですでに祭司による検査済みの、傷もしみもないいけにえの動物が用意されて売られていたのです。あとはお金を出して買いさえすればよいのですから、外国から一時帰国したユダヤ人にとっては両替屋やいけにえの動物の店があることはとても便利な制度だったのです。

当時イスラエルの成年男子は宮に納入金をイスラエルの貨幣で半シェケル収めなければなりませんでした。

ローマのデナリやアッティカのドラクマ等の外国通貨で宮に納入金を払うことはできなかったのですから、外国から一時帰国したユダヤ人にとっては、10分の1から6分の1というもったいない両替手数料を取られるとはいえ、両替屋は便利な制度だったのです。ユダヤ人がエルサレムに行った時にドルからイスラエルシェケルに直すのと似ています。

ところがイエス様は、商人だけでなく家畜をも神殿から追い出し、両替の出店をぶち壊してしまったのです。

これはユダヤ教の犠牲制度そのものを否定した象徴的行為だったのです。

旧約の儀式律法と神殿制度そのものを廃棄させる象徴的行為だったのです。

ヨハネ福音書の2章から4章では、古いものが新しいものに取って代わるというテーマで描かれています。

ユダヤ教の清めの水から、イエス様が十字架で流される新しい契約のぶどう酒にとって代わります。

手で作ったエルサレム神殿から、真の神殿に取って代わります。

生まれながらの人から、水と霊によって生まれ変わります。

バプテスマのヨハネが衰え、イエスが栄えます。

ゲリジム山の神殿礼拝でもなくエルサレムの神殿礼拝でもない、誠の礼拝をする時が来ました・・・・そういう古いものから新しいものに変わっていくというテーマがあります。

イエスキリストは祭儀のいけにえそのものを否定しました。そうすると、いけにえの儀式なしの神殿となると、もう神殿の建物は礼拝の場所でしかなくなってしまうのです。

初代教会では、神殿を単なる礼拝の場所として利用したに過ぎないのです。

イエス様の宮清めは、いけにえにまつわる商人をなくすために行われたのです。

そのことはゼカリヤ書14章20節と21節に預言されていたことでした。

14:20 その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、【主】の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。

14:21 エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の【主】への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の【主】の宮にはもう商人がいなくなる

すべてのイスラエルの乗り回す馬が聖なるものとされる時代がくる。エルサレムとユダのすべてのおなべが聖なるものとされるような時代がくる。つまり聖化が徹底され、聖と俗の区別がなくなる時代がくるという預言です。

その日には、万軍の主の宮にはもはや商人がいなくなる、つまり牛や羊や鳩を売る商人が宮で必要でなくなる時代がくるという預言です。

どうして罪のための動物のいけにえがいらなくなるのでしょうか?それは「世の罪を取り除く神の子羊」であるイエスキリストが十字架にかかり、完全な罪の贖いによって、もうエルサレムに動物をささげに上る必要がない新しい時代がきたのです。

イエスキリストは、儀式律法(ceremonial law)と神殿制度を廃棄するという革命的な目的のために宮清めをなさったのです。

さらにもう一つ大切な意味が宮清めの中に含まれています。

それは神殿の意味が新しい契約の中で変わっていったということです。

新しい契約のもとでは、神殿はもはや建物としての神殿を意味しません。神殿の概念はイエスキリストの体へと変わっていったのです。イエスキリストの体そのものが神の神殿であるのです。

その神殿の概念は、十字架と復活によって変わりました。

2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

当時のユダヤ人にとっては、「神殿をこわしてみなさい」と言われれば、だれだってエルサレム神殿のことしか考えません。新改訳は「三日でそれを建てよう」と訳されています。

新共同訳では、

2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。

口語訳では

2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。“Destroy this temple, and in three days I will raise it up.”

と訳されています。

実はもとの言葉では、三日で起すという言葉は「三日でよみがえる」とも訳せるかけことばだったのです。

19節のこの謎に満ちた言葉は「君達が私を殺せば、私は三日目に復活するよ。」という意味だったのです。

イエス様の死と神殿破壊、イエス様の復活と神殿の再建とをわざと誤解させ、イエス様を信じた者に十字架と復活の意味を理解させ、しかもイエスの体が神殿なのだということを強烈に結びつけるような誤解のさせ方をしたのです。これはイエス様のすぐれた高等戦術でした。

2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

そして18節の問いに対して答える中で、宮清めを行う権威が主イエスにあることを復活によって実証しようとされたのです。

17節の「あなたの家を思う熱心」これは、詩篇69篇9節からの引用です。

69:9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、

 あなたをそしる人々のそしりが、

 私に降りかかったからです。

神の家を思うキリストの熱心、つまり宮清めの熱心がついにはキリストの体を食いつくし、死をもたらしたという意味です。

神をそしる人のそしりがイエスキリストに降りかかったのです。

神の家を思う熱心とは宮清めをさします。私を食い尽くすとは十字架をさします。さらに食い尽くすという言葉は元の言葉では、建物を壊すという意味もあるので、弟子達は、この言葉でぴんときたのだと思われます。

神殿とは神の栄光を包む神が臨在される場所です。

ナザレのイエスという人間の体こそ、神の栄光を包む場所、神殿であったのです。

ヨハネ1章14節の「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」というところは、私たちの間に礼拝用のテント幕屋を張られたという意味があります。そのことは前に詳しくお話しました。

ナザレという限定された場所であるイエス様の体こそ、神の幕屋、神殿なのです。

ヨハネ2章22節の言葉に注目してください。

2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

イエス様の復活後、初代教会はイエス様こそ真の神殿であることに気がつきました。聖霊が宿っている場所、これがイエス様の体であるからです。

さらに聖霊の導きによってキリストと一体となったクリスチャンの体もキリストの体神殿の一部であることに気がついたのです。

このようにして教会の理解が発展していきました。

Iコリント6:19では私たちが神の宮であると書かれています。

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

私たちの体は神の宮であるとパウロは言います。自分の体は自分のものであるから、好き勝手にできると考える人がいます。胎児を降ろそうが、自殺をしようが、自分の体だからいいじゃないか」と考える人がいます。

新約聖書は、あなたの体は自分のものではなく、神の宮である。キリストの血という尊い代価を払って贖われた神の所有物である。神の宮である、と教えています。神の宮の存在の目的は神の栄光をあらわすことです。だから自分の体によって神の栄光をあらわしなさい、と勧めています。

私は、自殺志願の人にこの箇所を示しました。「あなたの体は自分のものではなく、神の所有物だから、自殺する権利はないのですよ」そう言うと、その人は自殺を思いとどめたのです。

神の宮、神の神殿という建物をさす概念が、新しい契約の時代では、キリストの体をさし、それと同時にさらにキリストの体である私たちの体をさすように概念が変わっていきました。

そして聖霊の宿る場所、神の栄光が包まれた宮であるイエスキリストを中心にした礼拝へと、礼拝のありかたもかわっていきました。

もはやエルサレムの神殿を中心にした神殿礼拝ではなく、キリストを中心にした礼拝へと変わっていきました。

私たちは、キリストを中心にし、キリストの体を中心にして、どこででも礼拝することができます。グローリーチャーチ高松の礼拝が、「祈りの家」と呼ばれるにふさわしいようにキリストによって清められて、神に喜ばれる礼拝をささげていきたいと思っています。

宮、神殿とは、キリストをさすと同時に、私たちの体をさします。キリストはすでに清い方ですから、清められる必要がありません。でも神の宮としての私たちの体は絶えず清められる必要があります。

礼拝の最中、神様をそっちのけにしてビジネスの事、仕事のことばかり考えている人は、いないでしょうか?その人は、キリストから宮きよめを受ける必要があります。礼拝にきてはいても神様に心を向けないで、人間関係のことばかり考えてしまう人はいないでしょうか?その人も、キリストによって宮清めを受ける必要があります。

礼拝にはきたけれども、心は本当は神様から遠く離れてしまっている人はいないでしょうか?神様に対して知らん顔をしている人はいないでしょうか?その人もキリストによって宮清めを受ける必要があります。がさがさと心が荒れている人はいないでしょうか?その人もキリストによって宮清めを受ける必要があります。

今静まって心を神様に向け、祈りをささげましょう。心を主に注ぎだし、主を仰いでください。

私たちが主によって清められ整えられるように祈りましょう。グローリーチャーチ高松の礼拝が、主を礼拝するにふさわしいように清められ整えられますように祈りもとめていきましょう。

私たちの礼拝が、がさがさした雰囲気が清められ、よく準備され整えられた礼拝となるように、主の栄光をあらわす礼拝となるように祈り求めていきましょう。

イエス様は、形だけで神様に心が向けられていない礼拝を好まれません。でも主に心が注ぎだされる礼拝は、喜んでお受けになられます。主の怒りを買うような部分があったら、悔い改めて主によって清められて、掃除していただきましょう。そして主に喜ばれる心からの礼拝をささげたいものだ、と願っています。

新しい時代の礼拝は、エルサレム神殿での礼拝ではなく、教会による礼拝です。教会とはキリストをかしらとしたキリストの体をいいます。キリストにあってひとつにされたのです。私たちは、キリストにあって互いに愛し合うように召されたのです。もし主にある一体性を否定するようながさがさした心が私たちの中にあるならば、私たちは宮清めが必要です。みなさんは祈っていますか?礼拝で祈っていますか?神の家は祈りの家なのです。(マタイ21:13)祈りを妨げるような、教会の一致を妨げるような要素が私たちの心の中にあるならば、主からお取り扱いを受ける必要があります。

きょうのメッセージのポイントをまとめておきます。

  • 私たちの心の中に、礼拝を妨げるようながさがさ、ざわざわした部分があるならば、イエス様によって清めていただきましょう。私たちの心の中に祈りを妨げているような要素があるかどうか、チェックしてみましょう。私たちの礼拝に宮清めが必要かどうか、私たちの心が宮清めが必要かどうか、チェックしてみましょう。
  • 新しい時代では、エルサレム中心の動物のいけにえをする神殿礼拝から、キリスト中心の神殿礼拝に変わりました。キリストの体が神殿なのです。神の栄光が包まれたところ、それが神殿であるキリストなのです。キリストは三日目に死者の中からよみがえって、今生きていらっしゃいます。この復活したキリストを信じて、礼拝することがキリスト教会の礼拝なのです。
  • 新しい時代では、神殿の概念は、復活したキリストの体にとどまりません。さらにキリストの体は、比喩な意味で教会の理解へと発展していきます。イエスの体が神の宮、神殿であるだけでなく、私たち教会が神の宮、神殿なのです(Iコリント6:19-20)。私たちはキリストにあって一体であり、キリストによって贖われた聖なる神の宮なのです。自分の体は自分のものではなく、聖霊の宮なのです。ですから私たちは、自分の体をもって神の栄光を現わすように召されているのです。