ヨハネ1:4-9「いのちと光」(The Life and the Light)(No. 2)

(1)ロゴス賛歌について

前回に続いてヨハネ福音書の序文のところからお話を進めていきます。新約聖書の中には、初代教会の讃美歌であったと思われるところがありますが、このヨハネ福音書の序文も、小アジアで教会の礼拝でよく歌われた讃美歌を使ったものであろうと多くの学者が考えています。

ヨハネ福音書の序文は、「はじめにことばがあった」ではじまります。ことばとは、ギリシャ語でロゴスといいます。ヨハネ福音書の序文は、イエスキリストを賛美するロゴス賛歌と、バプテスマのヨハネの証の説明文が交互にまざってでてきたものではないかと考えられています。

1節から5節までがロゴス賛歌、6節から9節までがバプテスマのヨハネの証とキリストの説明、10節から12節までが賛歌、13節が説明、14節がロゴス賛歌、15節がバプテスマのヨハネの証、16節がロゴス賛歌、17節が説明です。

つまりロゴス賛歌とバプテスマの証がそれぞれ3回ずつ交互に出てきます。キリストに関することと証言者に関することが3回ずつ入れ替わりに出てきます。

ヨハネの福音書の記者は、当時伝わっていた初代教会の讃美歌であるロゴス賛歌を福音書の導入部で利用して編入し、このロゴス賛歌をさえぎるようにしてバプテスマのヨハネとキリストの説明文を挿入し、キリストとバプテスマのヨハネを比較しながら福音書の導入部にしたと考えられます。

ロゴス賛歌だけにあたる部分を取り出して、もとのキリスト教会で歌われた讃美歌を再構成してみると次のようになります。

これはカトリックの学者Raymond Brownという人が書いたアンカーバイブルの注解書からの引用です。彼は、これがまだ仮説的な性質のものであると断りながら、オリジナルの讃美歌を再構成しようと試みています。

もとのロゴス賛歌と思われるものをご紹介いたします。

(1連)(First Strophe)

1:1 初めに、ことばがあった。

ことばは神とともにあった。

ことばは神であった。

 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

(2連)(Second Strophe)

 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。

造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

(3連)(Third Strophe)

 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、

世はこの方を知らなかった。

 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、

ご自分の民は受け入れなかった。

 1:12 しかし、この方を受け入れた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

(4連)(Fourth Strophe)

  1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

どうしてロゴス賛歌とそれ以外の付加した説明文とに分けられるのか、その根拠を説明してみます。

ロゴス賛歌であるということの第一の根拠が、文体の違いです。ロゴス賛歌は短いリズミカルな詩でできています。

セム語的なオリエント的な伝統をもったパラレリズム(平行法)が用いられています。

これに対してバプテスマのヨハネの説明や2章以下の本文は、長い説明文です。

ロゴス賛歌であるということの第二の根拠のが、紀元後200年ごろ歴史家エウセビウスという人によって書かれた書物の中に、小アジアについてふれた箇所でこんなふううに書かれていることにあります。

「兄弟たちによって書かれた詩篇や讃美歌は、はじめロゴスなるキリストが神としての性質をもっていることを強調するために歌われた」(「歴史」5:28:5)

ロゴス賛歌であるということの第三の根拠が、用語の違いです。「ことば(ロゴス)」とか「恵み」とか「満ち満ちた」という言葉はヨハネの福音書ではこのロゴス賛歌にしか使われていないのです。

とにかくこのロゴス賛歌は「神であられるキリストがこの世に肉体をとってきてくださり命を与えてくださったのだ。私たちはその恵みにつぐ恵みを受けたのだ。」というメッセージを伝え、賛歌を読む人に賛美と感謝の気持ちを伝え、読む人もいっしょになってキリストに賛美と感謝をささげるようにうながしているものであると考えられます。

このロゴス賛歌が、キリストの栄光をたたえる賛美なのだと感じていただければ幸いです。

 

(2)いのちについて

さてきょうのこの箇所には二つのキーワードがあります。

第一が「いのち」という言葉、第二が「光」ということばです。「いのち」も「光」もヨハネ福音書が好んで使った言葉です。いのちの反対が死です。「光」の反対が「やみ」です。

この「いのち」とはどういう意味でしょうか?私たちの生物学的な命の根源が創造者であるキリストでありますので、そういう意味で言っていると解釈している人もいますし、そう解釈できなくはないのですが、ヨハネの福音書の中でいのちという言葉使いをよく調べてみますと、そういう生物学的な意味でいのちというふうに使われている箇所はヨハネ文書ではどこにもないのです。

この「いのち」とは「永遠の命」と同義語です。この「いのち」はギリシャ的な霊魂不滅をさすのではなく、信仰によってキリストを信じることによって得られるものです。

この永遠の命は死んだあとはじめて得られるものではなく、イエスキリストを信じたその時に与えられるものなのです。

ヨハネ福音書は未来ではなく、現在が強調されています。

いますでにいのちが与えられている、とはヘブライ的な体験的な実存的なことばです。命の根源であるキリストを体験的に知った時、キリストと交わる瞬間が始まった時に、それが命だという意味です。神との親しい交わりに入ること、それが命なのです。

ヨハネ福音書が現在のいのちを語っている場所を一つ引用してみましょう。ヨハネ5章24-26節をみてください。

5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのち移っているのです

 5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

 5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

イエスキリストの言葉を聞き、イエスキリストを信じるものは、すでに永遠の命をもっているのです。「死から命に移っている」のです。イエスキリストを信じていない者は、やみの中を歩んでいる者であり、罪によって神から離れた死の生活をしている者なのです。しかし、ヨハネは、「神の言葉、キリストの声を聞いてまことの命に生きる時が今来ている。今がその時だ。そして聞く者は生きるのです。」と決心を促しています。つまり神のいのちの源から追い出された人間が、「今や命を与えるキリストの働きによって、生ける神との交わりを回復する時が来ている、今がその時です」とキリストのもとにきて命を得るように促しています。

人間は、本来神との交わりを持つ存在として創造されました。その本来的な状態に回復して、誠の神との交わりの中に戻された状態が命なのです。

先週、「ことばは神とともにあった」というお話をし、それが三位一体間の交わりをあらわすということについてお話をしました。父と子が生き生きと交わっていること、これが命の根源なのです。三位一体間の交わりがあって、それが神と人との交わりに派生し、発展していくのです。その交わりが私たちの間の交わりに発展していきます。私たちがキリストにつながっていると、私たちが生き生きとしてきます。賛美の心、感謝の心、礼拝の心が起こり、喜びと平安に満たされます。その人にいのちがあると、キリストを思う気持ちがでてきます。自分はキリストによって生かされているのだ、と思うようになります。

ヨハネ福音書は、現在が強調されています。今イエスキリストを信じるならば、今死から命に移ることができるのです。みなさんひとりひとりが、主イエスキリストと結びついて、命を持ち、キリストとの交わりの中で生きていただきたいと願っています。

 

(3)光について

次に光についてのお話に移ります。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

光とやみのコントラストは神とサタン、聖さと罪のコントラストのちがいの象徴です。15節で「やみはこれに打ち勝たなかった。」これは、やみはこれを「やみはこれを理解しなかった」と訳することもできます。どちらの訳も可能です。「やみはこれを理解しなかった」と訳すると、やみの中にいる人は、キリストがわからない、という意味になります。他方、「やみはこれに打ち勝たなかった」と訳すると、やみの力よりも光の力の方が強かったということになります。いったん一条の光が差し込みますと、それはもう真っ暗ではありません。真っ暗なやみの中に、ろうそく一本があれば、それはもう光があることになります。

光はやみに差し込めるけれども、やみは光の中にさしこめません。光があるとやみは消えてしまいます。闇は光に勝つことはできません。

いったん光が見えて来ると、新しい人生の再出発の時となります。人生の暗やみを克服できる時が来たからです。

この世界は神とサタンとの戦いです。

みなさんの心の中も神とサタンの戦場です。いったん光を受けてキリストを心の中に受け入れると、結局光の力の方が強く、いつか罪を悔い改めに導かれます。結局キリストを信じて歩もうという力が勝ってしまうのです。

イエスキリストの光は、人を救いに導く光です。

もしキリストを信じないでいるならば、その人は光の中を歩んでいません。

もしキリストとの交わりなしでやみの中を歩んでいるならば、その人は自分がどこへいくのかわかりません。

その人は人生の目的を知りません。死後自分がどうなるかも知りません。すべてが手探りの歩みです。つまずくこともあるでしょう。

光の中を歩むならば、つまずくことはありません。光があってはじめて自分の歩みが確かなものになります。

つまずくことなく、目的に向かって歩むことができます。

キリストの光なしに、人間は誠の神の前で正しく歩むことができません。キリストは、私たちを罪から救い出し、神様との正しい関係を回復させて、人生の問題に解決を与えてくださいます。だからキリストは光なのです。

6節から9節まで読みましょう。‘

1:6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。

 1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

 1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

6節から神から遣わされたヨハネという人が登場します。これはバプテスマのヨハネで、ヨハネの福音書の著者と考えられている使徒ヨハネとは別の人物です。何故証言者が登場したのかというと、10節にあるように、「世はこの方(キリスト)を知らなかった」からです。

証言がなければ、だれも気がつかないのです。証がなければ、だれも信じることができないからです。

この証はクリスチャンによって受け継がれていきます。

キリストを証する人なしに、光としてのキリストは理解できません。ですから光について証する人が必要なのです。

ところがバプテスマのヨハネは、別の場所で光であったと書かれています。その箇所ヨハネ5章35節を引用します。

5:33 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。

 5:34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。

 5:35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、そのの中で楽しむことを願ったのです。

ヨハネ1章8節にはヨハネは光ではなかったと書いてあり、5章34節ではヨハネは光であったと書かれています。一見矛盾するようですが、これはどう考えたらいいのでしょうか?

答えを言います。

バプテスマのヨハネは光ではありましたが、9節にあるような「すべての人を照らすまことの光」ではなかったのです。

この「まことの」という言葉は、影に対して本体を意味します。不完全なものに対して完全なものを意味します。

ヨハネは5章34節に書いてあるように、「しばらくの間」「燃えて輝くともしび」だったのです。これは不完全な光です。

これに対して、キリストは根源的な光、永遠の光です。光の源です。

ヨハネ8章12節でイエスキリストはご自分を世の光であるとおっしゃいました。

8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

ところがマタイの福音書5章14節で私たちは世の光であるとおっしゃいました。

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

 5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

キリストが「世の光」であるということと、私たちが「世の光である」ということとどう違うのでしょうか?この二つはどう関係しているのでしょうか?

答えを言います。

この違いは、太陽の光と月の光の違いにたとえることができます。太陽の方がはるかに大きいということですか?そういう違いもあるでしょう。でも太陽の光と月の光は、根本的な違いがあります。月は自分で光を放つことができません。月が光って見えるのは、ただ太陽の光を反射しているからです。

キリストが「すべての人を照らすまことの光」、根源的な光であるのに対して、私たちはキリストの栄光を反映した光にしかすぎません。

すべての人を照らすまことの光は、自分自身について証ができます。この光は自分で光り自分の力で他のすべてを照らすことができます。ところが証人としての光は、キリストの光を反映していなければ証人としての効き目がないのです。証人は、キリストの栄光を証してはじめて証人として立つことができます。

証人であるクリスチャンは、自分の栄光を現すために生きるべきではありません。クリスチャンの人生の目的は、自分の栄光を現すことではなく、神の栄光を現すことです。

みなさんは自分の栄光を現すために生きているでしょうか?それともキリストの栄光を現すために生きているでしょうか?

もしまことの光であるキリストの栄光を反映して生きていなくて、自分の栄光をあらわすために生きているならば、その人は証人ではありません。もし自分のことばかり推薦していたら、その人は証人ではなくなります。

その生き方は神中心でなく、自己中心であり、証になりません。証人のつとめは、まことの光であるキリストを証することなのです。世の中には、自分がどんなにすばらしい人間であるかを現そうとして、生きている人がいます。

ある人は、立派な人と自分が関係を作ろうとして生きている人もいます。ある人は、立派な人と関係があると宣伝しながら生きていいます。「彼は、僕の友達なんだよ。」「僕は、こんな有名な人と会っているんだよ。」そうやって、自分の立派さを現すために、立派な人間や有名な人間と自分といつも関係させて生きている人がいます。

ある人は、自分の持ち物を誇って生きています。自分はこんな素晴らしい持ち物がある。自分はこんな立派な家がある。自分はこんなにお金がある。自分はこんなにたくさんのお金を動かし、人を動かしている。そうやって自分の持ち物やお金があることを飾りにし、それを宣伝しながら生きている人がいます。

でもあんまり露骨に言うと嫌われるので、それとなく誇り、それとなくみえをはる人も多いです。謙遜を装いながらみえをはる人も多いです。

でもみえを張って生きていたらいい証になりません。もし自分の栄光を現すために生きていたら、それは自己中心であり、証になりません。

そういう生き方は、自分の栄光を証ししているのであって、神の栄光を現そうとするクリスチャン的な生き方ではありません。

自分の栄光を求めず、神の栄光を現すために生きる、これがクリスチャンの生き方なのです。神様は素晴らしい方だということを現すために生きることにクリスチャンの幸福があります。

もしよい行いをして誉められたら、「それは神様のおかげです、神様の恵みです。神様の力によってそうすることができただけです」といつも神様の素晴らしさを証する人、これが証し人のあるべき態度なのです。

ヨハネは、1章27節で、

1:27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」

と言いました。キリストと私と比べたら、もう月とすっぽんであり、雲泥の差であり、私は小さいものです、そういう謙虚な態度でキリストを紹介した人、これがバプテスマのヨハネでありました。

私たちも、バプテスマのヨハネのように、謙虚にまことの光キリストを証する証人になって、神の栄光を反映しながら輝いて生きていただきたいと願っています。私たちも、バプテスマのヨハネのように「光について証する」者になりたいものだと思います。

クリスチャンの生きる目的は、自分のすばらしさをあらわすことではない、自分の栄光を現わすことではありません。クリスチャンの生きる目的は、神の栄光を現すこと、キリストの栄光をあらわすことであることをきょう覚えていただきたいと願っています。